2014年6月8日日曜日

イギリス経済学の流れ: スミスからケインズまで





 イギリス経済学の流れ: スミスからケインズまで


                                           平井俊顕 

 本章ではスミスからケインズに至るイギリス経済学の潮流を理論史的な側面から概観する。限られた紙幅でこの課題を遂行するためには、自ずから大胆な切り口 そのことによって少なからざる論点がなおざりにされることになるが が必要となる。ここではそのために2つの分類概念を用いることにする。1つは貨幣的経済学と実物的経済学であり、もう1つは実物的経済学の分類概念であるプルートロジー (Plutology.富の理論) とキャタラクティックス (Catallactics.交換の理論)である。
 貨幣的経済学と実物的経済学という分類の根本をなすメルクマールは、前者が市場社会を本来的に変動を続ける不安定な傾向を有するものとみるのにたいし、後者がそれを本来的に均衡に収束する安定的な傾向を有するものとみる点にある。そしてこの相違をもたらしているのが市場社会における貨幣および信用の果たす役割についての見解の相違である。貨幣的経済学は貨幣が実物経済に影響をおよぼす(しかもそれは非常に不安定な影響をおよぼす)と考えるのにたいし、実物的経済学は貨幣が実物経済には影響をおよぼさない(貨幣は中立的である)と考える。貨幣理論をめぐるこの相違は、実物的経済学が二分法と貨幣数量説を標榜するのにたいし(いわゆる「過渡期」については副次的な注意しか払わない)、貨幣的経済学はそれらを批判する立場に立っているといってもよい(「過渡期」の分析こそが重要であると考える)。要するに、実物的経済学は二分法、貨幣数量説、完全雇用(セイ法則)、市場社会の安定性を理論的特徴として有するのにたいし、貨幣的経済学は2分法批判、貨幣数量説批判、不完全雇用(セイ法則批判)、市場社会の不安定性を理論的特徴として有する。
 景気循環ないしは経済変動という現象は、イギリスにおける産業革命の進展に伴う産業資本主義の発展とともに生じてきたものであるが、当初それは貨幣的論争という形態をとった。一八〇〇年代の地金論争(イングランド銀行による銀行券の兌換停止により生じたインフレーションを契機とする) 、一八四〇年代の通貨論争(一八三〇年代後半の恐慌を契機とする)はその代表的なものである。それらは、当時の多くの経済理論家、実業家、政治家を巻き込んだ激しいものであった。このなかからH・ソーントンの『紙券信用論』(一八〇二)に代表される貨幣的経済理論が誕生し、それはベンサムや初期のリカードウにも少なからざる影響を与えた。にもかかわらず、それ 経済理論の発展という見地からみると、その本体に影響を与えるものにはならなかった。スミスからケインズに至るイギリス経済学の潮流において、十九世紀の末葉に至るまでの圧倒的な主流派(スミス、リカードウ、J・S・ミルに代表される古典派、ジェヴォンズ、マーシャルに代表される新古典派)であったのは実物的経済学なのである。(スミスはさておき)、彼らが資本主義の不安定性を象徴する経済変動にまったく関心を払わなかったわけではないが、主流派の理論体系(実物的経済学)は基本的には実物体系であり、それとは独立にしかも副次的なものとして貨幣数量説が貨幣理論として採用されていたにすぎないのである。そのうえさらに主流派は、いわゆる「一般的供給過剰の不可能性」(「セイ法則」) を承認していたから(その代表は一八一〇年代にマルサスに対峙したリカ ドウである) 、景気循環の現象を経済理論的に説明する道はいよいよ狭められることになったのである。その後も景気循環をめぐっては、一八五〇年代の金価値論争(カリフォルニアやオーストラリアでの金鉱山の発見を契機とする) 、一八六〇年代の国際通貨論争等がみられたが、そして主流派リカードウ= ミル経済学の衰退にもかかわらず、このような事態は依然として続いたのである。H・ソーントンの貨幣的経済理論が、理論の一大本流として大きな影響力を発揮するのは、それから一世紀も経過したヴィクセルの『利子と物価』(一八九八)による再興以後のことであった。そしてイギリスで景気循環の問題が再び(しかも貨幣的経済学の視点から)取り上げられるようになるのは、ようやく第一次大戦の頃からなのである。
 ところで実物的経済学は二つに分類されると先ほど述べたが、経済学における最大の課題は、富(今日的にいえば国民所得) がいかに生産され、それが諸階級のあいだにいかに分配されるのか、またそれは資本蓄積とともにどのように変化していくのかの解明にある、つまり国民所得の分配と成長の問題の解明にあるという立場に立つのがプルートロジーである。これにたいして、経済学における最大の課題は市場における交換現象の解明にある、という立場に立つのがキャタラクティックス である。
  交換現象を説明する理論(財の交換価値を説明する理論)は価値論と呼ばれるが、それには労働価値説、生産費説、および需給均衡論(このなかに主観価値説も包摂しておくことにする) の三種がある。プルートロジーの立場に立つ理論体系は、主たる分析課題として上述のように生産・分配の問題を措定し、他方、価値論として生産費説ないしは労働価値説の立場をとるのが通常である。これが古典派経済学の基本的な特徴である。これにたいしてキャタラクティックスの立場に立つ理論体系は、価値論としての需給均衡論を理論分析の枢要に措定し、分配問題もその視点から分析しようとする。これが新古典派経済学の基本的な特徴である。実物的経済学としては同じ岸にいる古典派経済学と新古典派経済学は、プルートロジーとキャタラクテックスというとらえ方によってその相違点が明確になるのである。
 いうまでもなく、イギリス経済学に根本的な枠組みを与えたのはスミスの『諸国民の富』(一七七六) である。スミスは国民が労働と資本(ストック)により年間に生産する必需品および便宜品として国富をとらえた。そして国民一人当たりの国富はどのような要因により大きくなるのかを考察するところから議論を開始する。スミスは、それは労働生産性と生産的労働者数/不生産的労働者数の比率に依存すると述べ、前者はさらに分業に依存すると論じる。そしてこの分業を生じさせるのは人々の交換性向であると主張する。ここからスミスの交換価値を決定する原理の探究が始まるのである。
 スミスにはその後の古典派経済学のほとんどの要素が含まれている。スミスには価値論として上記の三つの要素が混在しているし、また分配論にも種々の説明方法が混在している。そのことがリカードウ理論に反対した人々(たとえばマルサス) も、リカードウと同様にスミスの理論からその根拠を引き出せた理由でもある。
 スミスの経済学の中心は、どちらかといえばプルートロギーであろうが、しかし交換現象の説明にも需給均衡論の要素が含まれておりキャタラクティックスの要素もある。この点がリカードウとは明確に異なっている。
 さて十九世紀の前半から一八七〇年頃までのイギリス経済学の方向に決定的な影響を与えたのはリカードウである。彼は主著『経済学および課税の原理』(一八一七)において、価値論と分配論を展開した。リカードウは価値論については、労働価値説ないしは生産費説の立場に立っており、需給均衡理論についてはきわめて特殊な場合に成立するにすぎないものであるという立場をとった。そのうえで価値論とは独立した問題として分配論を展開した。そこにおいてリカードウは富の3階級への分配(この理論は、差額地代論、マルサス的な人口理論、および賃金基金説に基づいて組み立てられている)ならびに資本蓄積を通じてのその分配の変化を中心的な分析課題とした。つまりリカードウの理論体系はプルートロジーであり、キャタラクティックスを否定する立場に立っていたのである。
 このようなリカードウの立論に対抗して、需給均衡論や主観価値説としてのキャタラクティックス的考えは、マルサス、ロイド、シーニョア、ロングフィールド等によって展開されていったのではあるが、分配・蓄積問題の解明が経済学にとっての中心的課題であるという立場を揺るがすものとはならなかったのである。
  キャタラクティックスにたいするプルートロジーの優位(これは同時に、イギリス経済学における需給均衡説や主観価値説の採用・普及を妨げる原因にもなった)は、J・S・ミルの『経済学原理』(一八四八)の出現により、再び堅固なものにされたということができる。この著作は理論史的視点からみると、権威を失いつつあったリカードウ理論の地位を回復するうえで寄与するところが大であった。
 『経済学原理』の編別構成からいっても、ミルは経済学の主要課題を生産と分配においており、価値論は( 慣習ではなく) 競争が作用する分配制度において意味があるとされる。需給理論は主として供給に制約がある場合(たとえば美術品)について妥当するが、供給が無制限(たいていの工業製品) あるいは費用逓増的(農産物) な財の自然価値には生産費説が有効だとしている。ミルの価値論は、リカードウの市場価値と自然価値の識別を踏襲しており、より重要な自然価値は生産費説として展開されているのである。需給方程式は一般的定式だというミル自身の言明にもかかわらず、一国の動態分析の価値論的な基礎には生産費説があるといってよい。ミルはリカードウとほぼ同じ内容の分配理論を主要な経済理論として位置付け、価値論については、生産費説の立場に立ちつつ需給均衡論をきわめて小さな意味しかもたないもの(妥当する財・サ  ヴィスが少なく、しかも短期的・一時的なもの)として取り扱ったのである(ミルにあっても、価値論と分配・蓄積論は独立した関係にあるものとしてとらえられていた)。経済学を「交換の理論」と呼ぶマカロックや「キャタラクティクス」という用語を作ったホェートリーの提案を退けたことに象徴されるように、ミルのとった立場はプルートロージーに当たる。この時代にあっても理論的関心の中心は、何よりも富の生産・分配ならびに資本蓄積の進展によるその変化の解明におかれていたのである。
  しかし一八七〇年前後になると、リカードウ= ミル経済学(古典派経済学)の権威は失墜する。たしかに新しい理論が登場したが、それは必ずしも多数の経済学者を引きつけたわけではなかった。むしろそれ以上に、W・T・ソーントンによる賃金基金説批判にミルが同意したこと(一八六九年) が、古典派の自壊作用の象徴的な事件とみなされたことによっているのである。むろんその後の経済理論の展開という観点からいえば、ジェヴォンズの登場はきわめて重要な意義をもっている。ジェヴォンズは『経済学の理論』(一八七一)のなかで主観価値説ならびにそれに基づく交換の理論を展開した。この考えは、彼自身が明確に自覚していたように、そして二十年後にはそのようなものとして、ワルラス、メンガーとともに高く評価され(いわゆる「限界革命」)、新古典派経済学の基盤となった。しかしながら、発表当初は批判を受けるか無視されるかのいずれかであった。
  この時期のイギリスでは、古典派経済学の演繹的・抽象的・非歴史的性格が、バジョットやレズリーにより激しく批判され、これらはアシュリーやイングラム等の歴史学派の系列に連なっていく。経済理論の見地からいえば、支配的な理論がなくなったという意味で空白の状態が生じた時期といえるのであり、キャタラクティックスの立場は、こうした事態のなかでも多数の経済学者の注目を集めるということはなかったのである。
  マーシャルが経済学者として登場するのはこのような時期であった。そして彼は早くも一八八〇年代にイギリスにおける圧倒的な主流派としての地位を築くのである。いわゆるケンブリッジ学派として知られる新古典派の誕生である。
  マーシャルには他の新古典派経済学者(ジェヴォンズ、ワルラス、メンガー等) とは著しく異なる特徴がある。一方でリカードウやJ・S・ミルから影響を受けつつ、他方そのうえで需給均衡論を中軸にすえたキャタラクティックスの立場に立つ理論を展開したという点がそれである。マーシャルの交換理論は、リカードウやミルにみられる生産費説、ならびに市場価値と自然価値の識別を前面にすえたうえで、それを需給均衡論のなかに包摂することにより、新しい価値理論として提示されたものである。にもかかわらず、それはリカードウやJ・S・ミルとは異なる理論体系(新古典派体系)に立つものであった。リカードウやミルの主要課題であった分配・蓄積問題は捨象され、彼らにみられる価値論のうち、生産費説ならびに市場価値と自然価値の問題のみが、あらたな理論的枠組みである需給均衡論のなかに取り入れられたからである( そして分配問題もこの視点から分析がなされた)
 マーシャルを始祖とするケンブリッジ学派は、その後第二次大戦に至るまでのイギリス経済学の圧倒的な主流であった。マーシャルは価値論において上述の立論を展開し、それは今日のミクロ経済学の一つの重要な財産になっている。では、彼の弟子たちは経済学の発展にたいして、どのような貢献をなしたのであろうか。ピグーの厚生経済学やロビンソンの不完全競争理論も、マーシャルの業績に端を発するきわめて重要な貢献である。だがそれにもまして重要なのは、最終的には「ケインズ革命」として知られることになる、そして今日に至るまで、理論経済学ならびにの出現であろう。これに至る道は、マーシャルなき後のケンブリッジ内部で展開された経済変動論の構築の試みに、多かれ少なかれ端を発している。
  さてマーシャルは価値論のほかに、通貨にたいする一般的信用が正常な状態で成立する現金残高アプローチによる貨幣数量説、ならびに正常でない状態で成立する信用循環理論を展開していた。マーシャルの弟子のうち、この流れにそった景気変動論を展開した人物として、ピグーやラヴィントンをあげることができる。
 他方、マーシャルの弟子のなかにも、スウェーデンの経済学者ヴィクセルのいわゆる「累積過程の理論」の流れを継承する景気変動論を展開する人が出てきた。これは既述のH・ソーントンの流れを汲む貨幣的経済学であるが、ロバートソンや『貨幣論』(一九三〇)のケインズがその代表格である。彼らはヴィクセル的立論にたっているという点で、リンダールやミュルダール(ストックホルム学派)、ミーゼスやハイエク(オーストリア学派)と軌を一にしている。そして二分法批判、セイ法則批判、貨幣数量説批判、市場経済の不安定性を重視する貨幣的経済学は20世紀の前半の輝かしい経済学の潮流となるのである。ケインズの『一般理論』はその最大の成果である。
 「ケインズ革命」は、『貨幣論』からの離脱の成果としてとらえることができよう。『貨幣論』は新古典派体系批判に基づいた貨幣的経済理論の構築をめざしており、その点では『一般理論』と同様である。だが、より重要なのは『一般理論』において初めて雇用量決定の具体的な理論が提示されたという点である。そのうえで、ケインズは二分法批判、セイ法則批判、貨幣数量説批判、市場経済の不安定性を重視する貨幣的経済学を再提示したのである。『一般理論』でケインズが通常いわれる「古典派」と「新古典派」の両者を「古典派」と呼んで批判の対象にしたのは、それが実物的経済学であるという点で共通する基盤に立っていると考えたからである。そこに「ケインズ革命」の核心が存する。
  ケインズの理論は、戦後いわゆる「新古典派総合」という御旗のもと、ミクロ経済学を担うものとしてのワルラス経済学(そしてその補助的位置にマーシャル経済学がおかれる)にたいして、マクロ経済学を担うものと位置づけられて今日に至っている。このような経済学の構成方法にたいしては、さまざまな方向からさまざまな批判が提起され、「新古典派総合」という名称自体も今日使われなくなっているが、にもかかわらず依然としてこの思考法は今日にあっても支配的であるといえよう。だがこのような経済理論の分割は、理論史的にみると(とくにヴィクセル的な流れを踏まえてみると) 、問題を含んでいる。しかも今日の経済学にあって流行をみてきているものは、マネタリズムであれ合理的期待形成であれ、いずれも市場社会の安定性にたいする異常なまでの信頼に立つものである。このような立場が貨幣的経済学と真っ向から対峙するものであることはいうまでもない。