2016年8月23日火曜日

Hayek, The Atavism of Social Justice, 1976 (Chapter 5)  平井俊顕







Hayek, The Atavism of Social Justice, 1976
(Chapter 5)


                                  平井俊顕 


このタイトルは、意味をもたない概念である「社会的正義」は、人類がその長い歴史のなかで培ってきたものであり、それが現在の市場社会にあっても人々の考えをかなり支配している、という意味で「隔世遺伝」と称すべきものである。したがって、「社会的正義という隔世遺伝」とでも訳すべきタイトルである。

自由な人々からなる社会にあっては「社会的正義」(=分配的正義)というのは意味をもたない空虚な公式にすぎない、というのがハイエクの結論である。

   「個人の正しい (just) 行為についてのルールは、自由な人々からなる平和な社会の維持にとって不可欠である。それは「社会的」正義を実現させようとする努力と整合的ではない。」(p.57)

キャタラクシー(交換)のゲームに従って各人が自らの私的利益を追求することが許される社会の実現が最も重要なことであり、あえていえば、それが「正義」ということである。またそうした市場経済により、経済的な生産の増大が実現されてきたのであり、世界の人口の増大を支えてきたのである。また、市場経済で自らの力で生き残れない人々にたいする保障も、この市場経済の経済力によって可能にされてきている。ハイエクはほぼこのように論じている。


   「正義は人間の行為のルールとしてのみ意味をもつ。市場経済において相互に財やサービスを提供し合う個々人の行為に考えられるいかなるルールも、正義とか不正義とか有意義に描写できる配分をもたらすことはない」 (p.58)

   「それゆえ、もしアト・ランダムに選んだ社会のいかなるメンバーの幸運を可能な限り増大することに貢献するような報酬のルールを正義とみなすならば、われわれは自由な市場によって決定される報酬を正義の報酬とみなして然るべきである」(p.63)

にもかかわらず、こうした社会的正義を人々が唱道するのは、ハイエクによると、人類が大半を過ごしてきた初期の社会形態から継承されてきた信条に由来する (これが隔世遺伝 (atavism) というタイトルが用いられている所以である)。小さな部族社会での生活という長年の生活で築かれてきた信条が、現在にも残っている、というのである。だが、こうした話はたんなるたとえ話であり、何ら説得力のあるものではないといわざるをえない、と。

何か特定の義務に代わり「抽象的な行動ルール」が支配することによって文明は発展してきた、とハイエクはいう。

   「文明の、そして究極的には「開かれた社会」(Open Society) 発展を可能にしてきた偉大な進歩は、特定の義務的目的にたいして行為の抽象的なルールがしだいに代わってきたこと、およびそれとともに、共通のインディケーターのもとに共同して行為するゲームの進展、したがって自生的秩序が進展してきたことであった」(p.60)

このことにより、拡散している情報が価格というかたちで多くの人々によって利用可能にされる。

    「このことによって得られる大きな利点は、広く拡散していたすべての関連する情報が、われわれが市場価格と呼ぶシンボルのかたちで、益々多くの人々に利用可能にされるという手続きを可能にしたということである」(p.60)

分業の最も重要な意義は、企業内での分業ではなく、社会内での、つまり企業間での分業である。

    「競争的市場の達成が依存するのは、そしてその市場が可能にするのは、大いにこの企業間での分業もしくは特化である」(p.62)

自生的秩序

   「もし人々が一般に、彼らがキャタラクシー(交換)に負っているもの、および彼らの存在そのものをどれほど多くそれに依存しているかを知らないとしても、そしてかれらがしばしばひどくかれらがその不正義と思うものに憤るとしても、それは、彼らがけっしてそれを企画したわけではなく、それゆえ彼らがそれを理解していないからである」(p.65)

   「だが、これらは、小さな集団の団結にとっては重要であるが、自由な人々による偉大な社会の秩序、生産性、および塀をとは整合的でない種類の義務である」
 (p.66)

最後にハイエクは、文化的選択過程のなかで、われわれが理解できるよりもうまく築いてきたこと、そしてわれわれの知識というものは試行錯誤の過程で、われわれの制度とともに形成されてきた、という考えが、「社会ダーウィニズム」と呼ばれることに抵抗をみせている。それは社会ダーウィニズムとは異なるものである、と主張している。そもそもダーウィンの自然淘汰説と、自らの「文化制度の競争的選択」論とは独立したものである、という認識がハイエクには存在する。

   「それは、われわれが競争的選択から得る主要な利点ではない。これは、文化的制度の競争的選択であり、その発見のためにわれわれはダーウィンを必要とはしなかった。むしろ、法や言語のような領域での、それについての増大する理解がダーウィンが彼の生物学的理論を助けたのである。私の問題は、本性的な性質の遺伝的な進化ではなく、学ぶことを通じての文化的進化である」(p.68)

自生的秩序論的淘汰過程論とでもいうべきものか(あるいは進化論的自生的秩序論とでもいおうか)

   「文明は人々が最も成功していると考えるものの隆盛によってではなく、そうなっ
たもの、まさに人はそれを理解しておらないがゆえに、人が考えることを超えて人を導いていったことの成長によって展開したというのは依然として正しい」 (p.68)