2016年2月9日火曜日

FRBのパフォーマンス



FRBのパフォーマンス

                        平井俊顕

バーナンキは、2006FRBの議長に就任した。就任からまもなくの2007年、アメリカではサブプライム・ローン危機が発生し、翌2008年には、リーマン・ショックが襲うことになった。当初は、FF金利を下げて対処したものの、やがてゼロ金利状態に陥った。そこでバーナンキが打ち出したのが、バーナンキに特徴的な「非伝統的金融政策」である。それは、基本的に前節で検討したバーナンキ論文で提示されている提案に則ったものであり、200811月のことであった。
ただし、1点だけ、大きく異なっている点がある。既述のように、バーナンキの2004年論文では、「量的緩和によるマネタリー・ベースの増大が、金融機関の実体経済への貸し出しを増加させ、そして信用乗数によりマネー・ストックが増大し、その結果、物価が上昇する」という「マネタリスト的な経路」も考えられていた。これは「量的緩和」政策のなかでの1つの経路であった。
だが、2001-2006年に実施された日銀の量的緩和 (QE) で、そのような経路が機能していないことをみたバーナンキは、「マネタリスト的な経路」は考慮に入れないことを決めた。そして自らの政策を「マネタリスト的な経路」を考慮しているQEと識別するために、同じように国債やその他の証券を大量に購入する政策に対し「大規模な資産買い入れ」(LSAP)という名を付けることにした。
つまり、上記の(i)の前半をのぞいた部分の効果を念頭に置いた政策という位置づけになっている、と言ってよい。

 バーナンキのFRBにおける「非伝統的金融政策」は、(1) (短期利子率 [FF金利] についての予想の形成) LSAP (大規模な資産の購入) の組み合わせで運営されてきた。
(1) は「フォワード・ガイダンス」である。FRBは局面に応じて異なるタイプのフォワード・ガイダンスを実施してきたが、注目すべきは、すべてFF金利についてのコミットメントである、という点である。
目に見えた大きな変化をもたらしたという点では、LSAPの方が明白であった。
また、FRBは、この政策を一時的なものだと考えており、この弊害をかなり意識していたから、絶えず、「出口戦略」についての議論も続けていた。

FRBLSAPの特徴 アメリカのLSAP3期に分けられる。第1期(LSAP1)は200811-20103月、第2 (LSAP2) 201011 – 20116月、第3 (LSAP3) 20129月―201410月である。以降はいわゆる「テーパリング」と呼ばれている段階的縮小であり、201410月をもって終了している
(なお、20119月以降、(2) [オペレーション・ツイスト]が実施されている)
 それぞれの期において、著しくその目的が異なっている点が、日本の場合と
異なっている。アメリカの場合、リーマン・ショックの激震のもと、金融システムが崩壊しようとしているというまさに存亡の問題であった。ブッシュ政権は、巨額 (最大7000億ドル) TARPにより、ウォール・ストリートの金融業界の救済を紙くず同然になったMBS (不動産担保証券) を買い取る計画を立てたが、これは成功せず、2500億ドルを用いて9銀行の株式を購入することになったのである。さらには政府は大手自動車メーカーの救済にまで手を広げることになった。2009年から大統領になったオバマはARRA (総額8000億ドル) による巨額の財政政策を実施することでアメリカ経済の浮揚に尽力した。第1 (LSAP1)が実施されたのはこのような局面であった。表1にあるように、FRBが購入対象にした最大のものは12500億ドルが注入されたMBS である(国債は3000億ドル)。注目すべきは、この当時、MBSには価格は付かない証券であったという点である。これをFRBが買い取ることで保有する銀行・投資銀行を救済したのである (このような状況下で(1)は何の役にも立たないものであったことであろう)FRBが購入したのは、その他に含まれる消費者ローンや車ローンもあった。不良資産をFRBが引き取ることで、民間経済部門が直接的に救済され、そのことで実体経済の再スタートが切られ、それがアメリカ経済の急速な回復をもたらしたのではないか。この点で、金融のメルトダウンに陥っていなかった(あるいは90年代後半の金融危機からは解放されていた)日本経済とは基本的におかれている状況は異なっていたのである。
 第2期では、アメリカがようやく金融危機から脱出した時期である。と同時にこの時期になると、均衡財政への要望、緊縮財政がアメリカ国内でも強くなり、オバマ政権・民主党は中間選挙で大敗を被ることになり、以降、財政政策は影をひそめることになった。変わって経済政策の中軸を担うことになったのが、LASPである。ここでの中心は国債の大規模な購入にのみ向けられており、総額6000億ドルに達している。
すでに見たように、LSAPでは信用乗数が伸びずマネー・ストックの増大は見込めないということを、バーナンキは当初から認識していた。それがQEという名をとらずにLSAPという名称を採用した理由であった。「マネタリスト的な経路」は考慮されていなかったのである。ではそれに代わる何を考慮していたのだろうか?FRBが公にしていたのは、資産の大量買い入れにより、長期利子率を引き下げることであった(つまり前節での(i)の後半)。

(1) FRBLASP

量的緩和政策
LSAP1
200811月~2010
3月)
LSAP2
201011月~
20116月)
米国債
3000億ドル
6000億ドル
MBS
12500億ドル

その他
1750億ドル

合計
17250億ドル
6000億ドル

LSAP3量的緩
和政策
2012 
9月~
 2013  
12月)
緩和逓減
2014
  1月)
緩和逓減
20142月~)
・・・
緩和逓減
2014
 10月)
米国債
毎月
450
ドル
毎月
400
ドル
毎月
350
ドル
・・・
毎月
100
ドル
MBS
毎月
400
ドル
毎月
350
ドル
毎月
300
ドル
・・・
毎月
50
億ドル
合計
850
ドル
750
ドル
650
ドル
・・・
150
ドル

(備考) 「・・・」各項目を段階的に縮小していく

3期になると、LSAPの購入対象は、再び国債と並んでMBSになっており、
ほぼ同額の購入である。このときの目標としては労働市場の刺激による景気の回復を謳っており、インフレ率が抑制されている状況が続けば、無期限に継続するとされている。
2014年になると、一転して、いわゆる「出口」戦略の実行に移っている。FRB
は絶えずLSAPのベネフィットとともにコストを意識した議論をFOMCで展開していた。そしてそれを実行に移したわけである(いわゆる「テーパリング」)。
そして201410LSAPを完了している。
 
 (2) 主要国中央銀行のバランス・シートの規模と構成の比較(2014年時点)