ハイエク「抽象性の優位性」(1969年) 「抽象的なもの」の優位性と題されたこの論文は、ハイエクの認識論を示すもので、きわめて興味深い内容をもつ。 「人々が物事を認識するのは、最初に具体的・特殊なものをみることから始まり、その過程を経てその後、抽象的な概念が形成される」という説を、ハイエクは批判する。真実はその逆であるという。 人々ははじめに無意識に (それとは気がつかずに) 抽象的な概念を獲得し ― それは精神の活動ではなく、「精神に生じる」 (happen)、と表現されている ―、それとの関連で経験を通じて、具体的・特殊なものを認識するようになる、というのである。 この認識論は、経験論哲学とは明白に対立するものである。経験論哲学では、最初に基本的な知覚、具体的な事物が認識され、そしてそれらを組み合わせることで複雑な認識 (抽象的な認識) が形成されていく、というように、単純から複雑へというプロセスにより、認識現象をとらえようとする。したがって、「タブラ・ラサ」に、単純な概念から始まり、複雑な概念が植え付けられていくというイギリス経験論哲学の立場に、ハイエクは批判的なように思われる。 ハイエクの場合、ある意味ではプラトン的意味で観念論的である。はじめに、例えば、犬という ([真] 実在) 概念 ― それは精神にたまたま生じる ― があり、その現象形態として、チワワとかブルドッグとかいった具体的な犬が存在する、という認識論である。無意識裏に人は抽象的概念を獲得する、といっても、それは生まれつき (生得) ではない。生まれた後にであるが、それを意識することなく、ある時、獲得している、というのである。そしてそれを、具体的な事例を見聞することで修正していく、という一種の進化論的見方をとる。 これは彼の「自生的秩序論」とも似ている。人々が気がつかぬうちに、突然として発生してきている社会的・文化的制度、そしてその価値に気づいた人々は、それを大事に維持していく、という社会哲学と一脈相通じるところがある。 ハイエクの認識論では、人のきわめて初期の状況にあって、複雑な観念がまず植え付けられるに至る (二歳児の「ニャンニャン、ワンワン」にたいする識別能力を想起されたし) という認識は、明らかに複雑さ (抽象的なもの) が最初に来る (そして具体的な事物はその後から来る) ものである。 もう1つ注意すべきことだが、ハイエクにあっては、複雑から「単純」へというプロセスは考えられていないように思われる。複雑 (抽象) から「具体」へというプロセスは強調されているが、複雑から単純へというプロセスについての言及はみられない。むしろ、「複雑から複雑」へというプロセス (そしてそれを仲介するのが、具体的事物) だけが考えられているような気もする。 あらゆる行為は、意識していないルール、だがその結合力によって可能とされているルールによって導かれているという見解を述べ、そしてこれは正義感についてもいえる、とハイエクは語っている。 こうみてきて、1つ気がつくのは、人々が意識せずに気がつくと、そこ (これは社会の場合もあれば、精神の場合もある) に、制度 (自生的秩序) や抽象的なルールが現出している。この場合、いずれの場合にも、「よい制度、よいルール」が前提されているように思われる。「悪い制度、悪いルール」は考えられていないのではないだろうか。例えば、他人の行為を判断したり、他人の行いを正義かいなかを評価するわれわれの能力という見方は、そのような価値前提が潜んでいるように思われる。 人々の行為が、そして人間社会が、それと意識することなく成立する制度や抽象的ルールによって動かされているという考えは、非常に興味深い着想である。だが、同時に、何か神秘的、人間の認識を超えたもの (それは神であるかもしれない) に、託すような論調が感じとれる。 ハイエクは、この考えを、ポッパーの反証主義の考えに似ていると述べている。つまり、個々の具体的事実から理論は帰納的に形成されるのではなく、まず理論が存在し、その後、具体的事実からの論駁・反証などがあって、理論は修正されていく、という考えである。最初に得られた抽象的概念は、特殊的・具体的事象によって修正 (ハイエクはこのことを進化論的にも描写している) していくかたちで、人の精神のなかに形成されていく、とするのである。 「私が主に関心をもつ「優位性」とは因果的な優位性である。すなわち、それは、精神的な現象の説明にあっては、最初にくるはずのものであり、他のことを説明するために使うことができるものに関係している」 「つまり私が主張しているのは、個々のことを認識できるためには、精神は抽象的な捜査を遂行することができなければならない、ということであり、そしてこの能力は、われわれが個々のことについて意識的に知覚することを語ることができる前に出現している、ということである。」 「具体性は抽象性を前提にする (精神には具体性のない抽象性が存在することができるが、その逆はないという意味) というのではなく、抽象性は具体性を前提にするという主張から、最も説明を要することを所与として扱う、というまったく誤ったアプローチが出てくることになる。」 「われわれのすべての行為は、われわれが意識していないルール、だがその結合した影響力によって、われわれに非常に複雑な技術の遂行を可能にする - 関連する運動の特定の連鎖について何ら知ることなく - ルールによって導かれている、と考えるべきである。」 次の一文も重要である。 「抽象性の形成は、人間精神の行動としてではなく、むしろ精神に生じる何か、もしくは、われわれが精神と呼ぶ関係の構造 - そしてそれはその操作を支配する抽象的規則のシステムからなる構造 - を変える (何か) とみなされるべきである。換言すれば、われわれは、精神と呼ぶものを、行動についての抽象的な規則のシステム (各々の「規則」が一群の行動を規定する) - それがそのようないくつかの規則の組み合わせにより各々の行動を決定する - とみなすべきである。他方、新しい規則 (もしくは抽象性) が出現するごとに、そのシステムの変更がなされるが、それはそれ自身の操作が作り出せるというものではなく、外的な要因によってもたらされる何かである。」 精神 = 行為についての抽象的なルールの体系 この体系がいくつかのルールの組み合わせによって各行為を決定する (各ルールは、一組の行為を定義する) 「われわれが意識的に経験することは、われわれが意識することのできないプロセスの一部にすぎないか、もしくはその結果である。というのは、それを意識的なできごとにする包括的な秩序のなかでの位置付けを与えるのは、超構造による多数の分類にほかならないからである。」 「新たな抽象性の形成は、意識的なプロセスの結果ではけっしてない。それは精神が意識的に目指すことのできる何かではなく、つねにその操作をすでに導いている何かの発見であるように思われる。」 次は、ハイエクの正義論である。 「他人の行動を意義あるものと認めるわれわれの能力、およびわれわれ自身の行動とか他人の行動を正しいとか正しくないと判断する能力は、われわれの行動を支配する非常に高い抽象的な規則をわれわれが所有していることに基づくものであるのに相違ない。だが、われわれはその存在を意識しておらず、ましてそれらを言葉で論じる能力を有してはいない。」 われわれの価値判断能力というものは、抽象的なルールの保有に依存している。だがそのルールの存在をわれわれは知らない。とすれば、われわれは存在を自ら確認できないなにものか (つまりは抽象的なルール) に動かされて行動する存在ということになるのだろうか。この抽象的なルールは、われわれが意識的に選択できるような性質のものではないわけで、とすればわれわれには責任能力はないということになりはしないだろうか。 「抽象的なルール」という概念には、ハイエクの目からみて「よいルール」だけが考察の対象として選ばれており、「悪いルール」は考察の対象外になっているように思われるが、いかがであろうか。 「「重ね合わせによる特定化」というフレーズ、つまり特定の行動は、行動化の敷居が下げられているある点で同等の行動パターンの領域から選択され、他の点では、同等の行動パターンの群れに属するものによって補強されている、ということを意味している。このフレーズは、私が「抽象性の優位性」と呼んできたところの操作のメカニズムを描写する最良のものであるように思われる。というのは、因果の決定子の各々は結果する行動の特性の1つだけを決定するからである。」 「重ね合わせによる特定化」=「抽象の優位性」という作用メカニズム |