2018年4月15日日曜日

シュムペーター「科学とイデオロギー」(1948年)



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シュムペーター「科学とイデオロギー」(1948年)



1. この論文には2つの論調が認められる。

2.1つは、イデオロギーと科学の関係である。イデオロギーが支配することで科学が圧迫されるような事態の出現 (それは一時的であるといいつつも) が、社会科学にはしばしばみられる。イデオロギーはその人のおかれている社会的条件によって規定されるところが多く、そのため無意識的であることが多い。シュムペーターは、この事例として、マルクス主義 (マルクスのなかのイデオロギー的要素が、社会の人々を支配するようになった) およびスタグネーショニスト・ケインズ主義をあげている。

われわれのマインドには、われわれの知識の累積的成長、およびわれわれの分析的努力の科学的特性にとって、ずっと危険な、― というのは、先入観は価値判断や特別な嘆願がそうであるのと同じ意味で、われわれのコントロールを越えているからである ― 経済プロセスについての先入観が存在する。たいていこれらは連携している  
が、これらは隔離されて別途扱うに値する。

   イデオロギーの源泉は、経済プロセスや、そのなかにある重要なものについてのわれわれの前科学的、科学外的ヴィジョンであり、通常、このヴィジョンはそれから科学的処理を受けるので、それは分析によって確証されるか棄却されるかである。そしていずれの場合においても、イデオロギーとしては消滅する。
それでは、それはどこまで消え去ることがないのであろうか。どの程度それは、蓄積されるそれとは反対の証拠に直面して自らを守るのであろうか。そしてそれは、われわれの分析手続き自身をどの程度損ない、その結果、われわれは、それはイデオロギーによって損なわれていると知った状態で残されることになるのであろうか。

3.もう1つは、科学の研究には、研究者がもつヴィジョンがまず最初にあり、それを精査する作業 (これが科学) が続く。科学の研究にはこの2つの過程が必ずついてくる。そして科学として意味をもつのは、この第2の過程で得られたものである (しかし、科学の研究にはヴィジョンの存在が重要である)。

  (科学的手続きは)われわれが分析したいと思う一連の関係する現象についての観念からスタートし、そしてこれらの現象が概念化され、それらのあいだの関係が、仮定としてであれ、命題(定理)としてであれ、陽表的に定式化された科学的モデルで終わる。

この、観念と前科学的分析の混合物のことをわれわれは研究者のヴィジョンあるいは直感と呼ぶことにしよう。

4.タイトルから分かるように、シュムペーターの関心は、科学とイデオロギーの関係におかれている。

5.ところでヴィジョンとイデオロギーの相違が、いま1つ明確ではない。つまり、ヴィジョンと科学を論じている場合、ヴィジョンにはいい意味が付されており、他方、イデオロギーと科学を論じている場合、イデオロギーには悪い意味が付されている。ヴィジョンもイデオロギーもともに前科学的段階のものとしてとらえられているが、両者の関係が不明瞭である。

「ケインズのヴィジョン」… これはイデオロギーと同義に用いられており、けっしていい意味では用いられていない。

   アピールし勝利を収めたのは、ふたたびイデオロギーであった - 衰退していく資本主義というヴィジョン …」

ケインズにたいする微妙な評価
イデオロギーの勝利、だが、ケインズはマーシャリアンであった。

  「かくして彼は、多くの彼の追随者がいささかもそのイデオロギー的要素をみることを妨げる武器で、彼のヴィジョンを提供することができたのである。」

 「吸収すべき真に新しい原理はない。不完全雇用均衡および非支出というイデオロギーが、 … ある事実(実際の、もしくは想像上の)を強調する2、3の制約的な仮定のなかに具体化されているのが容易にみとめられる。」 

マルクスとの関係で

  「… この場合、分析にたいするイデオロギーの勝利に注目されたい。イデオロギーが社会的信条になってしまい、それゆえ分析を不毛にするヴィジョンのすべての帰結である。」