シュムペーター「イギリスの経済学者と国家管理経済」(1949年) 1. これはイギリスの経済学者によって刊行された6冊の著作をめぐるレビュー・アーティクルであり、そのなかにはハロッド、ミード、ロビンズ、ジュークス (初代Economic Section の長) が含まれていて非常に興味深いものがある。 このペーパーの主題は、イギリスの経済学者は、伝統となっている信念に不当に影響されていること、そして、一方で計画化への素朴な喜び、他方でコントロールにたいする不快感に不当に影響されている、というものである。 (最初読んだ時は気がつかなかったが、再読して、かなり辛辣な批評になっていることに気づいた。) 2.シュムペーターは、イギリスがこの50年間に社会主義への道を歩んできたと認識している。 イギリス社会は真に社会主義的組織 ― 生産手段のコントロール (「所有」) を授与する組織という意味 (生産計画) において、そして労働以外の生産手段からの帰属収益を、社会の中央局 ― 政府と議会から構成されているかもしれないが、そうである必要はない ― のものと主張するという意味において ― に向かう長期的傾向がある (もしくはあると私は信じている)。(p.308) この半世紀のあいだに、イングランドは実際、ゆっくりと「社会主義に向けて成熟してきている。(p.309) 3. イギリスの経済学者についての次の描写 ― 労働者文明にたいする選好 ― は興味深い (そして同意する)。 経済学者の労働者文明にたいするこの選好がマーシャルやケアンズなどにまで遡れるのは、そしてそれがピグーの著作にいかに、より鋭い傾向を獲得したのかを示すことは、そして、経済的な心痛を克服するためにゆっくりと力を集結させてきた古くてとぎれない伝統 ― かつてマーシャルとケアンズがもっていた唯一のもの - を明らかにすることは、興味深い。(p.313) (ピグーの著作は『社会主義 対 資本主義』を指しているのかもしれない。) 4.この頃のイギリスの経済学者の社会哲学的スタンスについての描写は面白く、また正しいものである。 科学的水準を有する純正の社会主義者はほとんどいない・・・しかし、自由企業システムを唱える完全な唱道者はもっと少ない。そして大多数は「まだ」確信がもてないでいる。 (私の考えでは、彼らはニュー・リベラリズムもしくはニュー・リベラリズム的であるからである。) 5.労働主義 ("laborism") 階級としての労働階級の権益を最優先させるスタンス。 イギリス労働党についてのシュムペーターのとらえ方。 今日、労働党によって支持され、行われ、あるいは提案されてきた事実上すべてのことは、実際、「社会主義」というタイトルよりも、「労働主義」というタイトルの方がずっと適している。 社会主義的局面が強く強調されているのは確かである。また、国有化政策が、サボタージュに該当するような民間企業一般にたいする態度と合体していることも確かである。 ... 労働党の政策が、それ自身必ずしも社会主義的ではないけれども、社会主義への ― 特にイギリス風の - 道を開いているのは確かである。 決定的な勝利は、1906年の労働争議法 (the Trade Disputes Act) の通過によって獲得された。 6.シュムペーターは「計画」(Planning) という語は、「ほとんど無意味な用語」(next to meaningless term)、と評している。 7.さて、上記著者たちについてのシュムペーターの評価 彼らもまた、労働主義の前提を暗黙裏に、もしくはほとんど暗黙裏に受け入れている。 ・ジュークスの本 計画化に反対して自由企業文明(free-enterprise civilization)を唱道している。だが、シュムペーターはジュークスにたいして、ケインズ主義を受け入れている、と評している。 彼が描いている自由企業システムが骨を折るに値するのかを、人は疑問に思うだろう。他方、成功裏に作動するようなシステムを再構築するという恐ろしく甚大な仕事が、その真の次元において出現してくることになる。 ・ ミードの本 J.S.ミルの『原理』と同じ意味で「リベラル社会主義者」(liberal socialist)である。シュムペーターは、ミードは価格メカニズムを称揚しており、彼が社会主義者であるとは考えていない。ミードは、注意深く「誘因」や「高所得者にたいする減税」などにも言及しているが、しかしそうした考えは、労働主義を受け入れることで隠れてしまっている、と。 ・ロビンズの本 彼自身、「集産主義」("collectivism") の徳性に「まだ」説得されていないと公言しており、現在の苦難の終局的帰結としての「競争的秩序」を思い描いているように思われる。 まだ集産主義よりも「まだ」好んでいる「競争的秩序」を強調する価値があるとも思っていないように思われるロビンズは、1つではなく2つを意味している・・・」 これはロビンズも労働主義の前提を暗黙裏に承認している、というコンテクストで登場してきている。 ロビンズ教授は、彼のかつてのよりどころであったと私が思うものから、はるかに離れる方向に動いている。 (この指摘は興味深い。) ・ハロッドの本 リカードウ的手法。そして価格メカニズムを称揚。 シュムペーターは、ハロッドが「制限なき多国間自由貿易、非差別化、そして自由な交換可能通貨」を唱道していることに批判的である。 むしろ、イングランドは、その指令によるあらゆる手段でノーマルな位置に戻るように行動しなければならない …。これらの手段のなかには、このことが意味するすべての規制もしくは計画をもって、その位置での強い、もしくは弱くない点をマーカンティリスト的に利用することが含まれる。 8. この論評のタイトルにもなっている箇所 イングランドの問題全般、およびとくに国家管理経済についての議論は、伝統的になっている確信によって、両サイドにおいて、不当に影響を受けている。また、それは計画へのナイーブな喜びによって不当に影響を受けている・・・一方では,あからさまな官僚サディズムの、他方では、じらされることや非効率なタイプのコントロールへの怒りの影響を受けている。 9. 価格理論についての記述 経済学者には、・・・競争価格の力を称賛する傾向がある。ハロッドやミードはその典型的な例である。 いまや皆知るべきである。・・・ とくに資本主義的なものは何もなく、ほぼ平等な社会において、そしてほぼ正常な状況 (急速な技術的発展の不在を含む) にあっては、純粋競争が達成される傾向があるという価格システムについての一般的な経済論理があるばかりである、ということを。 (これは、おそらくcircular flow を論じるワルラス一般均衡理論を指していることであろう。) しかし、古い伝統にある社会主義者や、経済的能力よりも「福祉」や「正義」に熱中することが顕著である人々のみならず、専門家の経済学者も、この教訓が行き過ぎていると感じている。 シュムペーターはこの思いが正しいと考えている。 競争価格についてのバラ色の命題は、例外や制限条件のない純粋理論という稀有な場ですら適用できない。 それはまだ、「消費者」理論を受け入れていない。 私は、両陣営は、これらの問題に - そして事実、非常に古い用語だが - 非常に紳士的に対処することによって、独創的な貢献を行える大きな機会を喪失していると考えている。われわれはいずれのサイドからも新奇なことを学べる状況にはない。 ここで「両陣営」(both sides) といっているのは、プラニングに賛成の路線をとる人と市場経済を称揚する立場をとる人という意味だと思われる。 そして、つぎのようなかなり辛辣な批評をしている。 このすべての分析的補完物を構築したり、あるいはわれわれの分析的エンジンにそれが必要としている新しい部品を追加しようとするなんらかの包括的な試みをなしている人はほとんどいないように思われる。 10. シュムペーターは労働党がとってきた、そしてとっている政策にたいしておしなべて好意的である。 労働党は、信用するに値しており、マーシャルからの思わぬ大金 (マーシャル・プランのこと) によって提供されている息抜き場のなかで産業投資を助長しようとしている努力を責めてはならない。 したがって、「直接統制」― すなわち、このことが状況の漸次的改良に向けて何かをしてくれるだろうとの希望のもとに、消費の抑制と生産の拡張を強要する政策 - によりインフレを抑制することは、ただちに行うことができることのすべてであった。残りは、注意深く、あるとしても遠回りの運転によって達成されなければならない。そして、攻撃を受ける政治家の困難、逃げ口上を考えると、これが、少なくとも1947年8月の国際収支危機以来、まさに行われてきたことである、と言ってよいと思う。 (いわゆる「スターリング残高」危機の発生である。) |