(一言)賠償問題とケインズ ― 1941年9月 - 1945年12月 平井俊顕(上智大学) 本稿では、1941年9月から1945年12月に至る期間に、イギリスで検討された賠償問題をめぐり、ケインズがどのような働きをしたのかを、時系列的にフォローした。そこでの働きは、イギリス政府の公式のスタンスを形成するうえで、中核的な役割を果たしていたことが明らかである。 大きく分けると、3つの問題があった。 第1は賠償問題である。賠償問題についてのケインズの基本的スタンスは、「世界平和維持コストのためのドイツの負担」(1942年12月21日)のなかに見られる。すなわち、 (1) ドイツは、ある限定期間、元の所有者への返却を行使し、ならびにモノおよび労働サービスにより物理的に賠償する。 (2) ドイツは占領に伴う総ローカル費用を負担する。 (3) ドイツの輸出額をめぐっては「サジェスチョン」 (ドイツの輸出額をある勘定に入れ、そこから回収する案) に沿った扱いがなされる。 (4) 輸入制限をある範囲内に抑える。 なお、賠償問題をめぐり、ケインズがアメリカ国務省において、『マルキン報告』を、関心をもつ高官に説明するという機会があったが、それに聴衆が非常に関心をもったという点は興味深いものがある。アメリカのその後の考えに影響を与えたであろうからである。 第2はドイツの解体をめぐるものであった。この関連で、イギリス政府部内での議論と並び、アメリカの「モルゲンソー案」も登場してきている。これらについて、ケインズは大枠において賛意を示しているが、最も批判的であったのは、ドイツ人がいかに生きていくのかについての示唆が欠落しているという点であった。 第3は、占領政策のスタンスをめぐるものである。そこでは、ドイツの非軍事化に賛成するとともに、勝者が平和維持に負担する大きなコストと敗者が「軍事費不要 + 労働を産業に注入できる」、という問題をいかに提示するべきか、またドイツの分割と関税同盟構想の提示、さらにはロシアおよび「ヨーロッパのロシア化」への懸念の表明などが認められる。 われわれがこれまで検討を加えてきた、1940年代の活動 ― 一次産品、救済、国際通貨体制、通商政策、英米相互援助協定 ― とは様相を異にするものであることは、注意すべき点である。第2次大戦における勝者側が敗者側をいかに扱うのかという、すぐれて軍事的、地政学的、かつ政治的要素を濃厚に帯びた問題だからである。 本稿で論じた範囲では、ロシアは米英側とナチ・ドイツとの闘いにおいて共闘する立場になっており、やがて生じることになる米ソ冷戦体制という問題は顕在化していない時期である。ましてや中国は第二次国共合作の状況にあり、共産党が中国大陸を支配すると言う事態は生じてはいなかった。 ケインズは1946年4月に不帰の客となっているから、その後の世界覇権システムの激変、そして大英帝国の地位の後退と植民地の相次ぐ独立といった問題を見ることはなかった。彼が存命であったならば、これらの問題にどのように取り組んだのであろうか。大英帝国の存在を当然視するスタンスは損なわれることがなかったのであろうか、あるいは時代の変転のなかで、より現実的な路線をとることにしたのであろうか。いまとなっては、「たられば」の領域でしか語ることのできない問題である。ただ1つだけ確かなことがある - ケインズは、ものすごく熱心にこれらの問題に取り組んだことであろう。 |