2018年3月19日月曜日

(一言) 第二次大戦時の対米金融交渉 ― レンド・リースと英米相互援助協定 平井俊顕(上智大学)



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(一言)

第二次大戦時の対米金融交渉

― レンド・リースと英米相互援助協定


平井俊顕(上智大学)

英米間には基本的に協力し合うという姿勢が基調にあった。だが、それでも地政学的な自国権益が表面化し、衝突する場面も少なくなかった。
 とりわけ、イギリス側 (ケインズ) にはスターリング・ブロックという大英帝国の維持が発想の根底にあるから、アメリカから援助を受ける場合でも、可能な限りそこに干渉されないような金融取り決めの締結が目指されていた。ケインズもスターリング・ブロックの維持は当然視していた。
 他方、アメリカはイギリスを援助するかわりに「見返り」の提供を求めていた。一番激しい衝突がみられたのは、英米相互援助協定の第7条後段をめぐってであった。アメリカは帝国特恵関税や為替統制の撤廃を「差別化」の撤廃として打ち出していた。
英米交渉にさいし、ケインズがとった基本的方針は次のものであった。イギリスはつねに手持ちの資金を保有することに努めるべきであり、いざというときにそれを使用することで独立性を保てるようにしておくことが肝要である。譲りすぎて現金が手元に残らないという事態になれば、イギリスは独立した行動をとれなくなってしまう。だから、そうした事態を避けるためには、いかにすればドル資金を絶えず必要なだけ確保できるのかを考える必要がある。事実、ケインズはそうした計算を何度も繰り返している。
またケインズは、アメリカに保有するイギリスの直接投資物件の売却はしない方がいい、と考えていた。それは、イギリスの親会社とアメリカにある子会社のあいだの重要な連携関係を破壊する危険性が高い、というのがその理由であった。これらをめぐり、ケインズはこまかい計算を試みている。
 1941年12月以降、アメリカが参戦国になったことで、イギリスにも、たんに援助を受けているという関係から、同等の戦争仲間という意識に変わっていったことであろう。そうしたなかで、援助協定の性格も明白に相互援助的性格を強めていった。と同時に、イギリスは、大英帝国の領域を温存しながらこの関係を続ける方策に苦慮したわけである。
 ケインズも、こうしたコンテクストのなかで、自ら意識して活動していたといえる。それは、国際主義的な提案者の視点ではなく、大英帝国のきわめて優秀な経済戦争立案者の視点からの超人的活動であった、ということができる49。
当時のある人物が語っている論評がある。アメリカは恵んでやっていると考えているのに対し、ケインズはそれを当然の権利として交渉に臨んでいる、と。これは言いえて妙である。実際、ケインズの交渉姿勢を見ていると、イギリスは困ってアメリカに援助を求めているにもかかわらず、アメリカの高官をも彼の発案に引き込み、それに協力させるようにしているような雰囲気が感じられるところがある。本来は借りるという弱い立場であるのに、何か、アメリカを説得するような感じでイギリスの考えを好意的に受け入れさせているような感じがうかがえるのである。レンド・リース法はアメリカの法であり、イギリス側が口をはさめる問題ではないはずなのだが、どうもそういう雰囲気ではない。援助を請う側が対等の関係、いやそれ以上の関係にあるかのような感じになったりしている。
ケインズは新自由主義者 (ニュー・リベラリスト) であるが、同時に大英帝国の維持に大きな努力を傾けた人物である。1940年代に彼が行った国際交渉上のスタンスは、国際主義と同時に大英帝国の維持、とりわけ巨大なアメリカを前にできるだけ対等の地位を守ることに全力を傾けた、といってよい。
 ケインズは、戦後のイギリスが陥ることを懸念していたスターリング残高問題の発生を見る前に逝去した。また、戦後、世界政治においてソ連がどのような地位を占めることになるのかについては確たる展望もない時点で逝去した。
そして1956年にはスエズ危機が発生し、大英帝国の解体が決定的になり、時代は米ソ冷戦体制に至るのである。