2018年3月21日水曜日

石橋湛山考 平井俊顕(上智大学)

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石橋湛山考


平井俊顕(上智大学)
              
1. はじめに


日蓮宗僧侶の家に生まれた湛山 (1884-1973) だが、幼少時に他寺に預けられて生活している。早稲田で彼が学んだのは哲学であった。経済ジャーナリストの道に入ったのは、かなりの偶然が影響している。東洋経済新報社に入ったが、彼は経済記事を書くために入ったわけではなかった。社の事情でたまたまそうなる方向に運命づけられたのである。
 経済を自らで勉強し始めたのは28歳の頃で、まったくの独学であるというから驚く。おそらくそれ以前の哲学の勉強が彼の基本的なスタンスを決定づけていたのであろう、そのうえに経済、政治が眼前に突きつけられ、彼は現実をみる (日本経済・政治のみならず、世界の動向にも絶えず注意を払っている)と同時に、経済学書を読み続ける努力も怠らなかった。
 湛山の書き方で特徴的なのは、非常な自信をもって自論を展開していること、そして必ずといってよいほど、具体的な案を提示していること、であろう。
 湛山が尊敬していた人物は、早稲田時代の恩師 田中王堂である。プラグマティズムをアメリカで学んだ人で、日本での学歴はない。もう1人は、かのクラーク博士である (これは、甲府中学時代の恩師が札幌農学校で教えを受けた人でクラーク博士のことをよく話していたことからきているようである)。そして経済学においてはケインズからの影響が最も大きいと言ってよい。
 日本は、満州事変への対処を参謀本部が誤ったことで、関東軍の独走・暴走に足を引っ張られ、ついには中国大陸全土での侵略戦争を行う羽目に陥り、結局、自滅することになった。
 湛山がたんなる経済ジャーナリストでないのは、政治や軍部への批判を続けていたことに現れている。彼は自らを「自由主義者」と名乗っている。共産主義、社会主義にたいしては批判的であり、軍国主義にも批判的であった。湛山が日本の自滅の原因としてもう1点あげているのは、政党政治の貧困・矮小化である。

2. 経済評論

湛山は、歯切れよく日本の財政、金融、経済状況を分析している。あまり凝り固まったイデオロギーといったものとは無縁で、事実をかなり大胆に分析しながら、己の見解を相当な自信をもって語るという点が印象的である。いくつかの論点を見ていくことにしよう。

湛山は、金本位制にたいしては非常に批判的であり、「紙幣制度」 (=「統制通貨」)が今後の貨幣制度になっていくことに賛意を表明している。

「昭和6年12月の金本位停止、そして爾後我が国通貨制度は、この明治30年来引き続いて実施していたわが統制通貨制度から、金本位の形式を取り除き、その束縛を解いたものにすぎぬ。」

湛山は、公債の発行について、生産余剰が存在する不況下では、その発行は政府が日銀から受け取る貨幣を使用することで需要を喚起することになり、何の問題も引き起こすことはない、と述べている。公債の問題は、その国民経済の規模に依存している、というのが湛山の基本的スタンスである。
1929年から1936 年くらいまでは、大量の公債が発行され、生産余剰が存在する不況下であったから、日本経済は大いに成長を遂げることができた。そしてこれには金解禁が禁止され「紙幣制度」 (= 統制通貨) になったことで、為替レートが下がり、輸出が増大したことも寄与している。

湛山の経済政策論を見ることにしよう。湛山は、旧平価による金解禁反対、新平価での金解禁を一貫して唱えていた。当時、政府はイギリスと同様に、旧平価での金解禁 (金本位制) を遂行しようとして、1925-7年には、浜口・片岡蔵相により、1929年後半には井上蔵相により、デフレ政策が遂行され、そして1930年1月に、浜口内閣は旧平価での金本位復帰を実行するに至った。同時に一層のデフレ政策を伴いながら、である。
だが、折からのアメリカでの恐慌発生のあおりも受け、日本経済一層深刻な状況に陥った。そして1931年12月、浜口内閣は金解禁の停止を余儀なくされた。浜口内閣にとっては皮肉なことに、この後、為替相場の大幅な下落、および高橋是清蔵相下での財政支出の大幅な増大により、経済は大幅な改善をみせることになった。湛山はこれらの政策を「リフレーション政策」と名付けている。
この政策は2つの手段からなる - (i) 財政の膨張によって消費を起こすという手段、(ii) 金本位を停止し (変動相場にすることで) 円の為替相場を下げるという手段、である。(ii) がもたらす効果は、「日本の物価が海外からみて安くなる、即ち国際的にいままでの割高を訂正することができ」(国際収支の調節)ること、および「金利が下がること」である。
リフレーション政策とは、つねにこの2つの手段の総合として語られていることに注意が必要である。ケインズのLoan Expenditureと金本位制停止による為替相場の切り下げと言った議論もそのことを物語っている。だが、
いずれか1つを強調して語られているような雰囲気の表現がしばしば見受けられる。例えば以下のような表現である。

「リフレーション政策、即ち財政膨張策 …」
  
「… 昭和6年の金本位停止によってもたらされた為替下落はみごとにわが国内物価を騰貴せしめるとともに国際的にはこれを低下し、貿易を良化しリフレーション政策を成功せしめた。」

繰り返すと、2つの手段でリフレーション政策が語られていること、に留意することが肝要である。
ところで、この政策をインフレーションと言う言葉を用いるのは適切でなく、リフレーションという言葉が適切である理由を、湛山は次のように説明している (ここでも財政膨張策の影が薄くなった表現になっている感がある)。

「… それは過去のデフレーションによって安定を破られ、均衡を失った経済界に、その安定と均衡とを再び回復するに必要なる通貨の供給をし、物価の騰貴を図ったのでありますから、即ちそれはインフレーションでなくて、今日においてはリフレーションという言葉をもって表すのが当然の政策でありました。」

湛山の経済理論を見ることにしよう。そこで、重視されているのは、生産力が余っているか余っていないかという視点である。それに応じて、とられる経済政策は対照的なものとなる、というのが湛山の主要な考え方である。
次に示すものは湛山の経済理論の「基本命題」ともいうべきものであり、本質的にケインズの理論である。

 「財政支出は、いうまでもなく一種の消費または投資である。ゆえにこの財政支出と、財政以外の国民の消費および投資とを合計して、その総額が国民の生産力を超過せぬかぎり、増えてけっして悪い結果は生じない。いなもしその総額が国民の生産力を完全に働かすだけの量に達しないときは、ここに即ち生産過剰、操短、失業などを生じて、経済は不況に沈衰し、国民は困窮する。
   ゆえに右を財政の側面だけからいうと、財政支出は、財政以外の国民の消費および投資と合わせて、その総額が国民の生産力を完全に使用しつくす点まで、これを調節膨張せしめることが理想である。この点より以下に財政支出がしぼめば経済界は不況に陥り、またこの点以上にそれが増えればここにいわゆる悪性インフレを生ずる。」

そのため、1937年以降、湛山の主張は、それまでのリフレーション政策とはうって変わって次のようになる。

「… 現在わが国にとって最も必要な政策は、第1に為替相場を引き上げて物価の騰貴を抑え、第2に増税を断行し、第3に金利を引き下げ、もって日本の景気をいつまでも持続し生産力をさらに充実いたすことであります。」

いまでは、生産余剰がなくなっているから、公債の発行は好ましくなく、むしろ増税によるべし、というのが湛山の見解である。

 湛山をリフレーション論者としてのみ焦点を当てるのは、妥当性を欠く。彼は1931年前後はリフレーション論者であったが、1937年以降は反インフレーション論者である。湛山は上記の「基本命題」にしたがって経済の状況を判断しており、その結果、リフレーション論者 (これが最も政策論争の現場で有名なものであったのは確かであるが) にも反インフレ論者にもなっているのである。
 このことは次の湛山の言葉が、何よりも雄弁に物語っている。

「… とにかく、私が今頻りに増税を論じ、インフレに反対するのは、かつて不景気対策としてリフレーション政策を主張したその理論に忠実に依拠するものであることを考えてほしい。前に私と同様リフレーション政策を唱えた論者は、当然今日もまた私と同論でなければならぬはずである。さもなければそれらの人々は、前においていまだ真に理論に徹底していなかった者とみるほかはない。」

為替相場の引き上げを主張する理由を湛山は、次のように記している。

  「すなわち、記者が当時金本位制の停止を主張したのは、まったく国内経済の安定を回復するためにほかならなかった。そしてそのさいには、この国内経済の安定をはかるためには、物価の騰貴を必要としたから、すなわち金本位の停止によって為替相場を下げよと論じたのである。したがってこの理論は、当時と逆の事情の発生したさいには、為替相場の引上げを主張して当然だ。そして記者はいまやわが国はまさにその逆の事情に当面していると信ずるものである。」

湛山は、上記からもうかがわれるように、理論的・政策的に最も依拠しているのはケインズである。諸所に、ケインズの理論についての (肯定的) 言及が見られる。何点かを例示しておくと、乗数理論、Loan Expenditure、利子をめぐる自然金利 等である。最後の「自然金利」に関する言及は、流動性選好理論のコンテクストで語られていると思われる。次が関連する箇所である。

「… 金利はいかに人為を加えても、生産力が使い切られた点以下には下げえないということになります。この点における金利を、われわれは自然金利と称えます。それならどうして自然金利の点までは金利が下がるかと申すと、… そこまでは、金利の低下に応じて生産が増加する、したがって資本の蓄積も増加するからであります。」


3.政治評論

湛山は、軍部の軍事的増強や日華事変の展開などについて、それほど批判的な
姿勢をとっているわけではない。むしろ事態の推移においてそれを容認する姿
勢をとっていると言えるであろう。中国大陸への進出を歓迎している風すら見
受けられるからである。
政治については、政党政治を重視するスタンスを堅持している。そしてその視点から、日本の政党政治の堕落ぶりを厳しく批判している。湛山が最も重視しているのは、政党が具体的な政策を明示し、そしてそれをいかに実行するのかを示す、という点である。彼は、議会制民主主義を重視し、何よりも言論の自由の重要性をたえず訴えている。
ところが、そうした行動は政党政治家によって目指されることがなく、それが日本の民主化への重大な障害になった、というのが湛山の認識である。日本の政治家、ことに政党政治家が政治の目的を政権の争奪におき、これがためには手段を選ばずに苛烈な政争を繰り返したことが、日本の民主化を致命的に妨げることになった原因であり、彼らの心構えは根本的に民主的ではなかった、と湛山は評している。湛山は、明治以来の政党の歴史を次のように喝破している。
 そもそも、日本の政党は、それが打倒の対象とした藩閥政治家と同じ基盤から発生しており、板垣退助や大隈重信に代表されるように、薩長閥を倒し政権を獲得することを目的とするものであった。しかも、明治30年ころからは、政党と藩閥とのあいだでの妥協史の様相を見せるとともに、政党間の泥仕合が展開されたことで、政党と議会の権威を失墜させることになった。そして軍縮問題、満州問題などを政争の具に供し、軍部を利用するに至り、政党自らその身を滅ぼし、また国を滅ぼすに至った。当初、政党の政争の具に利用された軍部は、やがて政党を軽視し、踏みにじって自ら政治の主導者たるに至った。湛山はこのように見ている。


4. むすび

湛山は、世界や日本で生じている経済・政治現象についての情報の入手に努めるだけではなく、関連する経済学の書籍についても幅広く読みこなしている。なかでも彼が多大の関心を払い続けたのは、ケインズである。『貨幣論』、『一般理論』などについて、ただ読むだけではなく、1932年には社内に「ケインズ研究会」をつくり、『貨幣論』についての検討を重ねているし、『一般理論』についてはその翻訳をめぐり、読み合わせ会を、多くの経済学者を招き、10数回にわたって開いている。
湛山は、非常に多くの具体的な政策提案を行うとともに、それらを数多くの研究会や講演会を組織して全国的に講演して歩くという行動力・実行力に溢れた稀有の政治経済ジャーナリストであった。「経済倶楽部」の創設、(後に) 金融学会となる学会の創設、さらには英文雑誌『オリエンタル・エコノミスト』の発刊等は、いずれも彼の発案とイニシアティブによるものである。そして何よりも、東洋経済新報社という自由主義的伝統を掲げる組織から、困難なる時代にあるなかで、ここを拠点に自らの政治・経済についての見解を発表し続けたことが、彼にあっては特筆されるべき点である。