2018年3月18日日曜日

対米借款交渉について一言 ― 1945年8月 ~ 12月 平井俊顕 (上智大学)

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対米借款交渉について一言
― 1945年8月 ~ 12月


平井俊顕 (上智大学)



イギリス側の現在、および直近に生じる金融的状況、およびイギリス側が考えるそれへの対処案を、アメリカ側に説明するところから交渉は始まった。
イギリス側が構築していたシステムは、次のようになっていた。中心は、スターリング圏であり、それは統合化された貿易・金融システムになっていた (ここには植民地、インド、オーストラリア、カナダ、南アフリカなどが含まれる)。それに加え、圏外の諸国とのあいだでは支払い協定 (Payments Agreements) が締結されていた。そこでの主要通貨はポンドであり、これらの域内で取引された交易の結果は、ロンドンにある当該国の中央銀行の口座におかれるようになっていた。このように、イギリス側は、巨大な世界貿易・金融システムを形成していた。これは、世界が大恐慌の後、ブロック経済化していくなかでとられ、構築されたものである。
こうしたシステムを構築・運営している「大英帝国」が、第2次大戦の発生により抱えるに至った経済的困窮に対し、アメリカがどのようなスタンスで対処するのか、という問題が、大きな問題として浮上していた。イギリス側は「大英帝国」をいかにして維持していくべきかが大きな問題であったが、それに対し、世界経済において圧倒的な地位を占めるに至っているアメリカにとっては、困窮するイギリスに対しいかに対処していくべきか、さらには世界の政治・軍事システムが急激に変化していくなかでいかなる立場をとるべきかが大きな問題であった。
第2次大戦の進展するなか、アメリカ側は真珠湾攻撃を契機に連合軍側につくことになる。そしてルーズヴェルト政権は、武器貸与法 (レンド・リース法) により、連合国軍への巨額の武器援助を、その条件を問わぬまま行うことを表明した。欧州戦線はダンケルク撤退に、アジア戦線は日本軍の進撃に象徴されるように、連合軍側は危機的状況に陥っていたなかで、アメリカがとった処置である。
こうしたなか、英米間での具体的な援助をめぐる交渉が展開されていくことになる。英米相互援助協定で重要な争点になった「第7条問題」にあるように、アメリカ側はスターリング圏の解体を大きな要求項目としてもっていた。国際自由貿易体制の樹立を唱道するコーデル・ハルのような立場があり、それには特恵関税制度の廃止や「スターリング残高問題」の処理 (つまりは国際通貨ポンドの地位をどうするかに直結している問題) が大きな攻撃目標となったわけである。
ケインズの基本的スタンスは、大英帝国を最大限確保しつつ、アメリカからの援助を受けつつもアメリカと対等の状態で戦後体制を構築する、というものであった。そのためには、国際的な理想主義に則った国際機構・国際システムを樹立していくことが不可欠である、と考えていた。そのうえで、大英帝国内部のことは、内部での共同行為により解決していく、これがケインズのスタンスであった。
大英帝国は新興国アメリカから見れば、「うざい」存在でもあった。ケインズの方からすれば、困窮に陥っている大英帝国をいかにして救うのか、そしてそのためにどうしても頼らざるを得ないアメリカから、いかにして (つまり屈辱的なことにならないような状態で) 援助を得ることができるのかが最大の課題であった。このことが分かっているアメリカ側からすれば、無条件で援助を差し出すことができないのは、当然であろう。それに、ルーズヴェルト政権の重要な官僚のなかには、大英帝国に対する批判者も多く存在していた (ホワイトもその1人である)。
本稿が扱っているのは、日本の敗戦により、第2次大戦が終了した後、レンド・リースが廃止されたことにより、金融的・財政的に大きな困難を迎えることになったイギリスが、アメリカから援助を受けるために行われた交渉である。
当然ながら重大な問題は、「スターリング残高」問題である。現在、「凍結されているスターリング残高」が自由にされてしまうと、ポンド危機問題が発生する。例えば、インドがロンドンに保有しているスターリング残高が自由に使えるようになれば、それはドルに交換され、そしてインドはドルでアメリカから物資を購入することが可能になる。この傾向が加速化すれば、たちまちポンド為替は急落する。