2018年3月20日火曜日

石橋湛山について 平井俊顕(上智大学)



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石橋湛山について

平井俊顕(上智大学)


日蓮宗僧侶の家に生まれた湛山 (1884-1973年) だが、幼少時から他寺に預けられて育っている。早稲田で彼が学んだのは哲学である。ジャーナリストの道に入ったのには、かなりの偶然が作用している。東洋経済新報社に入ったが、彼は経済ジャーナリストを目指して入社したわけではなく、たまたま社の事情でそうなる方向に運命づけられたのである。

湛山は、戦前の日本が生んだ最大級の政治・経済ジャーナリストである。彼は自らを一貫して「自由主義者」と名乗っている。共産主義、社会主義には批判的であり、政治や軍部の行動に対しても絶えず批判的であった。そして湛山が日本の自滅の原因としてあげている1つの注目すべき点は、これらの政治・軍部の行動に対し抑止力となり本来の自由主義的な国家建設に寄与すべきはずの政党が貧困であり矮小であったというものである。湛山が最も重視しているのは、政党が具体的な政策を明示し、そしてそれをいかに実行するか、という点であるが、正統はこれに欠けているという批判である。彼は、議会制民主主義を重視し、なによりも言論の自由の重要性をたえず訴えていた。

だが何よりも、湛山の名を歴史上に残しているのは経済ジャーナリストとしてである。1920年代後半から生じた金解禁論争において、旧平価による金解禁を唱え、デフレ政策をとっていた井上準之助は、1930年1月、旧平価による金解禁 (金本位制復帰) を実行に移したのだが、湛山はそれには批判的であり、新平価による金解禁を一貫して唱道していた。

だが、アメリカに大恐慌が発生し、1931年12月、浜口内閣は金解禁の停止を余儀なくされた。浜口内閣にとっては皮肉なことに、この後、為替相場の大幅な下落、および高橋是清蔵相下での財政支出の大幅な増大により、経済は大幅な改善をみせることになった。湛山はこれらの政策を「リフレーション政策」と名付けている。

湛山は、日本の財政、金融、経済状況を歯切れよく分析している。凝り固まったイデオロギーとは無縁で、事実をかなり大胆に分析しながら、己の見解を相当な自信をもって語っている点、そして必ずといってよいほど具体的な案を提示している点が印象的である。

この点に関し2点あげておこう。1つは、通貨体制そのもののあり方に大いなる関心を示している点である。金本位制そのものに対して批判的であり、「紙幣制度」 (=「統制通貨」) が今後の貨幣制度になっていくことに賛意を表明している。もう1つは、1937年以降は、一転してインフレ抑制策を主張している点である。日本経済はインフレ傾向を示しているから、為替相場を引き上げ、増税を断行することを、唱道している。

己の見解を相当の自信をもって語るスタンスは、おそらく大学時の哲学 (とりわけ早稲田時代の恩師 田中王堂 [プラグマティズムの思想家として知られる]) からの影響によって培われたところが大きいように思われる。なにせ経済を勉強し始めたのは28歳の頃からであり、しかも上記のような偶然に由来している。

ただ、以降の湛山は、世界や日本で生じている経済・政治現象についての情報の入手に努めるだけではなく、関連する経済学の書籍についても幅広く読みこなしている。なかでも彼が多大の関心を払い続けたのは、ケインズである。『貨幣論』、『一般理論』などについて、ただ読むだけではなく、1932年には社内に「ケインズ研究会」をつくり、『貨幣論』についての検討を重ねているし、『一般理論』についてはその翻訳をめぐり、読み合わせ会を、多くの経済学者を招き、10数回にわたって開いている。
 
湛山は、非常に多くの具体的な政策提案を行うとともに、それらを数多くの研究会や講演会を組織して全国的に講演して歩くという行動力・実行力に溢れた稀有の政治経済ジャーナリストであった。「経済倶楽部」の創設、(後に) 金融学会となる学会の創設、さらには英文雑誌『オリエンタル・エコノミスト』の発刊等は、いずれも彼の発案とイニシアティブによるものである。そして何よりも、東洋経済新報社という自由主義的伝統を掲げる組織から、困難なる時代にあるなかで、ここを拠点に自らの政治・経済についての見解を発表し続けたことが、彼にあっては特筆されるべき点である。