大正・昭和
平井俊顕
Ⅰ. 第一次大戦
(1914-1918)
1.
第一次大戦前 (1914年以前) のヨーロッパの情勢については、牧野伸顕の伝記に、詳細な描写があって参考になる。そのなかで、エドワード8世を褒め、ヴィルヘルム2世を低評価している箇所が印象的である。日露戦争をめぐるヨーロッパの反応なども印象的に叙述されている。
2.
バルカン半島はオーストリア=ハンガリー帝国からの独立をめぐり、緊張が高まっていた。そうしたなか、オーストリアがスラブ人の土地の併合を行った。このようなことでオーストリア皇太子暗殺事件が勃発する。オーストリアはセルビアに10項目の要求を出した。これにたいし、セルビア側は裁判への介入項目のみ拒絶した。こうしてオーストリアとセルビアとの国交は断絶し、戦いが始まった。
3.
この直後、ロシア、ドイツ、フランスが次々と参戦を表明することになり、最後にはイギリスも参戦することとなった。イギリス、フランス、ロシア、セルビアにたいし、ドイツ、オーストリア、トルコの戦いである。戦争は、各国で熱狂的な支持をうけた。これが第一次大戦と呼ばれるものに発展していった。イギリスでは、バッキンガム宮殿前の広場での民衆の興奮ぶりが知られる。
4.
第一次大戦で、日本は連合国側についた。1915年 対華21カ条要求
Ⅱ. 発展と混迷
1.
わが国が飛躍的な成長をみせるのは第一次大戦である。欧米での戦争の結果、戦争特需、そしてアジア市場の空洞化により、わが国経済は驚くべき活況をみせることになった。企業の数は飛躍的に増大し、海外取引活動も急激な拡大をみせることになった。
2.
しかし、この後、この後始末の先送り政策が大きな問題を後年に引き起こすことになった。政府は企業を救済する財政政策を採り続けたからである
(これは高橋是清による「放漫財政」と揶揄されることもある)。この結果、ずさんな融資が延々と続けられることになった。金子商店と台湾銀行の関係はそれを象徴するものである。
3.
1919年、日本経済は反動不況を経験したが、その後、立ち直りをみせる。そして1923年の関東大震災は日本経済に壊滅的打撃を与えたが、それを救助すべく震災手形が乱発されることになった。大戦のひずみの解消の先送りと震災問題は、1927年には片岡蔵相の失言問題を契機に金融恐慌を引き起こすに至った。高橋は頼まれて、40日ほど大蔵大臣を務め、モラトリアムを中心として、この危機を脱出させることに成功した (この経緯は『随想録』に詳しい)。
4. 1918年 ヴェルサイユ講和会議に、日本は西園寺公望を代表 (実際の中心は牧野伸顕 - 大久保利通の次男:1861-1949年) として派遣した。
大正デモクラシー
(アメリカの影響) 第一次大戦へのアメリカの参戦 「デモクラシーの擁護」を旗印に
1918年の米騒動および原敬政友会内閣の成立
5. 1919年 カンリフ委員会報告
6. 1922年 ジェノア国際経済会議
この詳細は、その前後の政治・経済状況を含め、参加した深井英五の『回顧70年』に記されている。
(これはヨーロッパ諸国のあいだでの会議であり、アメリカは参加していない。)
金本位制への復帰 (第6条)、緊縮予算、均衡予算 (第7条) を唱道。
Hawtrey, “The Genoa Resolutions on Currency” in Monetary Reconstruction, pp. 122-138.
Manchester Guardian紙特派員としてのケインズの報告
鶴見裕輔・上田貞次郎 「新自由主義」を唱える (1924年ころ)
7. モルガン商会 (ラモント) による震災への融資 (日銀総裁井上準之助からの依頼)
8. 1925年4月 イギリス(旧平価での)金本位制復帰
9. 1927年7月 ストロング、ノーマン、シャハト、リストのニューヨーク会議
10. 1927年3月 金融恐慌 (銀行の取り付け騒ぎ。政府、見せ金の紙幣を増発)
震災手形の不良債権化。しかしそれ以前からの第1次大戦のバブル崩壊により生じた不良債権問題が先送りになっており、この2つの要素が重なって金融恐慌は発生した。
11. 1928年10月 日本商工会議所 金解禁即時実行を決議
(「金解禁」実施・・・金本位制復帰、「金解禁停止」・・・金本位制離脱)
12. 1929年 ヤング委員会 (金本位制に復帰しない国の参加を認めない)
浜口内閣成立 (7月。大蔵大臣は井上準之助)
浜口雄幸の東京放送局でのラジオ演説。
井上、全国で金解禁の演説を行う。緊縮財政(予算の5%削減)
井上の考えは、ジェノア会議の線に沿った動きであり、当時の世界の支配的な考えに沿っていたといえる。
緊縮は流行の唄にまでなった。ラモントも緊縮を支持。
10月 ウォール・ストリート 株価の大暴落。
井上、ラモントに1億円の融資を依頼。
為替相場に介入、円を10% 高くする(変動相場制の時代。ドル売り、円買い操作)
イギリスと同じように、為替レートを人為的に高くした。しかも緊縮財政を採用し、消費節減の奨励を行った。
デフレ政策を遂行
金解禁準備声明直前 (1円 = 43ドル75)
旧平価(1円 = 49ドル85)。
旧平価での復帰(大幅な為替レートの切り上げ)というのも、イギリスのとった方針と同じである。
1930年 1月 (旧平価での)金本位制復帰 (金解禁)
13. 1930年、浜口内閣の大蔵大臣井上準之助により金本位制が採用されることになった。この失敗を救うべく再度、高橋是清が大蔵大臣となった。高橋は、金本位制を廃止し、変動相場制に制度を改め、低金利政策をとったが、それが功を奏し、日本経済は一転、好況に転じることになった。いわゆる「リフレーション政策」である(これについては石橋湛山が最も熱心な唱道者であった)。
14. これらの経緯のなかで、重要な社会問題が発生していた。
1つはドル買い投機が金融資本家によって行われていたことや(大財閥による先物為替投機行動
[ドル買い、円売り])、鈴木商店(金子直吉を指導者とする)の政商的行動が社会問題に発展していた。
もう1つは農村の窮状である。このなかから軍部のなかに過激軍国主義的国体改造運動が発生してくることになった。
15. 軍部の予算増加要求を拒んだ高橋是清は、ついに2.26事件でその凶弾のまえに倒れた。83歳の波乱に満ちた生涯であった。満州事変を経ていた日本は、以降、軍部独裁のまえにだれもそれを統制することのできないまま、破滅への道をひた走り続けることになった。
国会紛糾
浜口雄幸暗殺
井上準之助暗殺
1933年
ロンドン国際経済会議
この詳細は、深井英五の『回顧70年』にその参加者ならではの、生々しい状況が記されている。
ラモントの文書はハーヴァード大学Baker Libraryに保管されている。
為替投機
ドル買い投機の出現。政府、ドル売りで対抗。
高橋是清 金解禁の禁止 (つまりは変動相場制)。その結果、円が下落。
低金利政策。大幅な財政支出 [リフレーション政策]。資本フライトの抑制。輸出好調に転じる。
(高橋が金本位制度に愛着をもっていたことは、深井英五の『回顧70年』で分かる。)
16. 金本位制について
1円=49ドル85セントを平価とする (つまり政府はこれで対応する)。
金の移動の自由を認める。
この条件が満たされれば、外為市場に政府は介入する必要はない。なぜなら、金の裁定を通じての企業の活動により
(金輸出点)、外為市場の相場は平価になるからである。
金の自由な移動が認められない場合、変動相場制になる。
Cf. 同じ固定相場制でも、IMF体制の場合、平価を政府は外為市場に介入することで維持するシステムである(外為市場と政府の介入の関係が金本位制とは異なる。)
参考文献
井上準之助 『金解禁 - 全日本に叫ぶ』先進社、1929年
佐伯陽堂編 『高橋是清大論集』明星書院、1931年
深井英五 『回顧70年』岩波書店、1941年
高橋是清遺著『随想録』
今村武雄『評伝 高橋是清』時事通信社、1948年。
石橋湛山『現代不景気論』平凡社、1930年
石橋湛山氏講術 『日本経済の現位置と若干の見透し』東京銀行集会所、1937年2
月
政友会 『浜口内閣の執れる不景気政策の実相』立憲政友会会報局、1930年
後藤新一『高橋是清』日経新書、1977年
片岡直温『大正昭和政治史の一断面』西川百子居文庫、1934年
有竹修二『昭和大蔵省外史』上中下、財経詳報社、1969年
津島寿一『芳塘随想 - 高橋是清翁のこと』芳塘刊行会、1962年
牧野伸顕
Hawtrey, “The
Genoa Resolutions on Currency” in Monetary
Reconstruction,