2016年8月13日土曜日

Knight, Freedom as Fact and Criterion, 1929 by 平井俊顕




 Knight, Freedom as Fact and Criterion, 1929

by 平井俊顕

  

非常に難解な論文である。
功利主義(のとりわけ政治的側面・・・社会政策)と倫理学をめぐる立論が展開されている。功利主義にたいし、ナイトはこの論文では非常に批判的な見方に立っている。

スペンサーと同時代人の主観価値学派は、次のような考えを考案した。

「最大の善は、最大の自由を通じて実現される」(p.4) という考え

「最大の自由、すなわち自由放任という経済的功利主義的政治哲学の潜在する理論的根 拠」(p.6)

「評価基準」として「自由」をとらえるのは錯覚である、というのが、この論文の1つの
重要な主張である。「最大の自由という理論」は、結局のところ、現状を正当化すること
に終わってしまう(この点は繰り返し強調されている)。こうしたことから逃れる方法は、
倫理的判断に訴えることである。「自由」が何らかの倫理的意義を有するとすれば、それ
は、それに先立つ倫理的ノルムから導出される。

「ここでのわれわれの目的は、「評価基準」としての自由という概念そのものが錯覚であるということを示すことである。最大の自由の理論は、もし本当にそれが実行され
るならば、たまたま存在するどのような人間関係についても論点先取り的正当化に終わってしまう。この結果を避け、何らかの倫理的判断に到達するための唯一の方法は、
そのような倫理的判断に訴えることである。もし自由概念が何らかの倫理的意義を有するのであれば、それは先行する倫理的ノルムから導出される」(p.7)

「自由と権力」(power)を混同することのもつ問題を、ナイトはつねに指摘している(彼
の他の論文でもよく見受けられる論法である)。

「社会政策の目標としての最大自由という功利主義原理の致命的欠陥は、自由と権力についての混同である。(p.7)

... 行動を遂行する自由は、主体が行動に必要な手段を所有していないかぎり、意味がない(p.7)

「現実的な問題は、形式的な自由の、ではなくむしろ権力の問題である」(p.7)

ナイトは「最大の自由という理論」の議論は明快であるが、その論理には大きな穴がある
と考えている。

「この理論(最大の自由という理論)は、享受の手段 その結果もまた出発点に依存しているというプロセスで測定されたものとして の現行の分配がすべて固定されていると宣言することによって倫理的問題を片づけているにすぎない。それは現状を是認している」(p.8)

困難からの2つの脱出が試みられた。

(1) 倫理学からの経済学の独立の主張。そして科学としての確立の主張。

(2) 所得の不平等を、生産と分配にまで戻って考察する。


「完全競争理論」にたいし、ナイトは批判的である。

 「自由の原理は、所得の相違を正当化するのにどの程度まで行けるのか。それは、
  人々が本当に自由であるかぎり、どこまででも行く・・・」(p.11)

  「それは遠くはない。そしてそれは、実際の相違が圧倒的な程度、権力の相違に依存しているという議論を要求することはない」(p.12)

 「人は、より多くの富もしくは所得を生み出す能力をもっていればいるほど、収益の同じ割合のみならず、増大する割合を投資することが容易になる」(p.12)

より長期で考えるとき、遺産と不確実性が入ってくる。(p.13)

倫理的観点からは、所得を、自由な選択、遺産、および幸運 (luck) という源泉に分けて
考えるのがよい。(p.13) そのなかで最大のものは幸運である、とナイトは述べている。

「すべては交換の特性にではなく、諸個人が交換にもってくるものに依存している。
 そしてこれは究極的には事実の問題であって倫理の問題ではない。」(p.14)

「自由という概念は無意味である」(p.14)

   「自由は、政策の客観的標準を提供することはできない。それは、自由という感情自身が道徳的承認から導出されるとき、道徳的判断という主観性からの脱出方法であるか、あるいはせいぜい道徳的是認のもう1つの側面である」(p.15)

  「自由は権力にたいし相対的である」(p.15)

  「自由はそれ自身倫理的な範疇であり、法的政策の道徳的判断の客観的な評価基準をおそらく与えることはできない」(p.17)

  「政策についての議論は、道徳的判断から離れては可能ではない。・・・標準として最大自由に訴えるというのは、誤謬を招く。その結果は、権力の現行の配分の独断的な受容である。それは、倫理的な命題であり、偽装された価値判断であり、倫理的に弁護できないものである」(p.19)

・哲学者にたいして与える提示
・ラジカルな実証への言及・・・すべてのことを物理的変化と関連づけようとし、それ以外の説明を拒否する態度

ナイトはプラグマティズムにたいして好意を寄せている。(pp.22-23)

 「われわれの最終的な提示は、この現象についてプラグマティックな路線にそって十分に明白な説明ができる、というものである。」

   「心と事物の有効な接触の唯一の点は、自律的な筋肉を通じてである。そして自律的な筋肉ができる唯一の活動は、まさに空間における物理的集結もしくは再編成というこの変化である - 最初は、組織自身のメンバーの、つづいて外的事物の、集結もしくは再編成である。これが、すべての存在を物理的な存在に、そしてすべての変化を空間的集結に帰するというバイアスの源泉であり意味ではないのだろうか」(p.23)

なぜ、こうした話が出てきて終わっているのか、いまいちピンとこない。またタイトルのうち、「評価基準」の方は分かるが、「事実」の方はどう関係しているのか分かりにくい。

ナイトは新古典派の理論にたいして限界効用経済学(Marginal Utility Economics)
どをみると、非常に高い評価を与えている(他のどの経済学派にたいしてよりも高い評価
をしている)。
しかし、この論文を読むと、それらの理論が自由という概念にたいして、誤ったとらえ
方をしているという批判的視点、そしてそれゆえ功利主義にたいする倫理的見地からの厳しい批判の目を向けていることが分かる。この2つの点 一方での高い評価と、他方での激しい批判 について、どうみればよいのだろうか。