ハイエク The Origins of the Rule of Law, 1960
(The Constitution of Liberty)
平井俊顕
個人的な自由は17世紀のイギリスで権力闘争の副産物として生じたものであり、それが文明世界のモデルになった。これがハイエクの第1の認識である。
しかし、さらにさかのぼれば、中世(とくに初期)にあってはヨーロッパ全体に「法の優位性」という思想が普遍的に存在した。しかし大陸では絶対主義の台頭がそれを破壊したのにたいし、イングランドではその多くを保持した、とハイエクは考えている。
さらにハイエクは古代アテネにさかのぼる。
ソロン
アリストテレスからの引用
16世紀末に「イソノミア」(Isonomia)(すべての人にとって法は平等)という語がイタリアからイングランドに輸入された。その後、「法のまえでの平等」(equality before the law) 「法の統治」(government of law)、「法の支配」( rule of law) などがそれに取って代わって使われるようになった。
ローマの12表法、リヴィウス、キケロなど、法による支配を支える人々の事例があげられている。
しかし2世紀頃から社会主義が急速に広まり、法の支配が破壊されていった、とハイエクはいう。そして新しい社会政策のため、国家による経済生活のコントロールが増大していったが、この過程はコンスタンティヌス大帝のときに頂点に達した。以降、1000年にわたって「法の支配」という概念は喪失した。
イングランドでは、国王と議会の争いの副産物として個人的自由が生まれ出た。
・1610年 苦情の請願 (Petition of Grievances),
・エドワード・コウク (Edward Coke) のマグナ・カルタ解釈
・1641年 星室庁 (Star Chamber) の廃止
・「成文憲法」(written constitution)という考え、および権力の分立という原理
・ロックのSecond Treatise on Civil Governmentの検討 (名誉革命)
・ヒュームの『英国史』 ― イングランド史の真の意味は、「意思の統治から法の統治 への」進展であった。
18世紀後半には、こうした理想は、人々にとって当然視された。
スミス、ブラキストン、ペイリー、バーク等々
しかし、18世紀の終わりには、イングランドの自由原理の発展への貢献は終止符を打った (マコーレイ、マカロック、シーニョアの試みがあったとはいえ)。
哲学的急進主義者 (ベンサム一派) やフランス的伝統 (啓蒙思想) の影響により、新たな自由主義がホイッグ主義を打倒してしまった。その事例としてのリチャード・プライス(そして彼にたいするチュルゴーの賞賛)。
彼らは、これまでまったく存在しなかったものを、英国に持ち込んだ - その法と制度のすべてを合理的原理により作り変えるという欲望 (p. 174)
この頃以降、政治的自由という本質的にフランス的概念は、実際に、個人的自由をいうイングランド的理想を次第に排除していくことになった。 (p.174)