2016年8月9日火曜日

ハーバート・ノーマン 『日本における近代国家の成立』(岩波文庫) by 平井俊顕






 

      ハーバート・ノーマン『日本における近代国家の成立』岩波文庫

     Japan's Emergence as a Modern State Political and Economic Problems of the Meiji Period, Institute of Pacific Relations, 1940.

                                by 平井俊顕

  ノーマンは1933-35 年にケンブリッジで学生生活を送っている。この時、社会主義思
想に共感している。ノーマン史学の特質は、 「大仕掛けの歴史」と「小さな歴史」の融合にある、と言われる。

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  明治維新は、(1) 封建社会の内部的危機  藩の財政窮迫 [それを乗り越えようとして、専売制度、マニュファクチュア等による藩政改革が遂行された] 、武士の困窮、農民の困窮 (年貢は高率であり、地主 - 小作人制度が進行していた) (2) 西洋列強の圧力、という2 つの圧力が偶然的に結びつくという政治環境に端を発したものである。
  明治維新は、下級武士階層 (彼らは有力外様大名の藩政改革において指導的な力を発揮し、そこでの経験が明治維新に生かされることになる) を指導層とする上からの革命であった。彼らは大商人階層と結びつきつつ、幕藩体制を打破し (廃藩置県、地租改正等) 、中央集権国家体制のもとで資本主義社会を創出することに成功した。              

  大商人は新政府を資金的にバックアップした。だが彼らは自らの手で工業に投資する意欲はなく、当初あくまでも金融的側面から関与した (典型は金録公債や地租を担保にした金融)。工業化への道は、軍事力に直結する軍需関連産業の育成というかたちで新政府がイニシアティブをとった (官営事業。それは幕府や有力諸藩が行っていたことを継承しながら行われた) 大商人は、その頃いまだ「企業家精神」を有していたとはいえないのである。それらはやがて払い下げられた。つまり、大商人は当初、銀行・金融資本として機能し、その後、払い下げられた工場を端緒として工業経営に着手していくことになった。大商人は、財閥を形成していく道を歩み始めるのである。

  新政府は、旧藩主にたいしても非常に寛大な措置をとることで、革命を円滑にした。それは莫大な金録公債や賜金の供与であり、彼らはこれをもとでに銀行業や土地を取得して大地主となっていった。そして後には華族の称号を与えられるに至る。

 これとは対照的な扱いを受けたのが農民である。彼らは幕府時代と変わらない搾取を受けつづけた。過酷な地租、それに驚くほどの小作料 (そのため、地主--小作関係は一層の進展をみた)が彼らに課せられた。新政府は当初、この地租以外には何の税収手段をももち合わせていなかった。幕府が鎖国政策をとってきていたために、西欧諸国とは異なり、海外貿易からの利潤の道が絶たれていたために、負担は農民に重くのしかかったのである。また地主や金貸しは、高利の小作料がとれる農業に魅力を感じていたが、それはあくまでも高利貸しとしてであって、農業資本家としてではなかった。また、暴利が小作料で得られるのであるから、彼らが工業などに投資する誘因ももたなかったのである。なお、農民は、やがて貿易により安い綿、砂糖が輸入されることによって、副業的家内工業を失うことになった 養蚕が登場するのは、その結果である。しかも彼らは、労働者として都市に流れ込むことはできなかった。まだ工業が誕生していなかったからである

  武士階層の境遇は複雑である。彼らのごく一部は明治維新の指導者になった (いわゆる薩長土肥による藩閥政治を担った) が、階層としての武士は (農民、工・商とは異なり)消滅する運命にあった。彼らの大多数は、わずかの秩録公債を受け取っただけであるから、経済的、社会的に非常に不安定な境遇におかれた。彼らの多くが、新政府に不満を抱いたのも、ある意味で当然である。

 明治維新では 既述の大商人を除くと 都市住民(市民) は何の役割も演じなかった。これはヨーロッパとの大きな相違である。

 産業革命が日本に生じるのは1880年代に入ってからである(明治維新はその前に生じている)

 緊迫した国際政情のもと、明治維新は急速なテンポで封建体制から資本主義体制への変換を遂げていくことになった。だから、日本の近代化は多くの封建的要素を残しつつ進行し、その影響は深く新社会を規定することになったのである 農村は封建的要素を色濃く残したままであり、それは第二次大戦後まで続いたといえる。新体制の中心的な思想として「自由主義」はいかなる意味でも入り込む余地がなかった。

新体制の中枢思想は、海外列強の圧力から日本を救い、独立国家として日本を再建するという点におかれていた。だから彼らは西欧技術の摂取に熱心であったし、その点でプラグマティストであった。彼らは実際には、藩閥勢力を基軸に動いたし、一種のエリーティズムを熱烈に有していた。そしてその精神において彼らは武士であったし勤皇であった。明治憲法は彼らに最もフィットしたプロシアに範を得たものであるということも、そのことと深い関係をもっている。「自由」や「個人」を語れるような時代環境ではなかったし、そうしたものが社会のなかに実在しなかったといえる。かりに町人文化のなかにそうしたものが生じたとしても、それは指導的な精神にはなりえなかった。かの「自由民権運動」の挫折は明治時代における「自由主義」の挫折でもあった。