2016年8月17日水曜日

ナイト “Laissez-Faire: Pros and Cons”(1967) by 平井俊顕




ナイト Laissez-Faire: Pros and Cons”(1967)

by 平井俊顕

ハイエクのThe Constitution of Libertyを主たる対象にした書評論文であるハイエクの自由主義にたいするナイト自身の自由主義のスタンスからの辛辣な批判になっている

原理的にレッセ-フェールに賛成か反対かを論じる必要はない。問題は、自由あるいは統制の量と種類 それらは状況に依存している にある。

私の関心は科学としての経済学、しかし、行為を導くのに有益な科学としての経済学にある。そして問題となる行動は社会的であり、このことは政治的であることを意味する。

ここで「行動」(conduct)とは、手段の効果的な利用によって達成される目的に向かうものとして考えられている。

経済学の特性についてのナイトの興味深い洞察がみられる。

「経済的知識は、主として精神的な相互交流を通じてもたらされるため、非常に不完全なものである」(p.436)

「人々の過誤は、たいていそれらの前提にあるのであって、論理の悪さにあるのではない。人はただ、半面だけの真理を真理として扱うことによって、もっともらしい前提からほとんど何でも証明することができる。そしてそのことが、政治的議論において普通になされていることである」(p.437)

主要な悪徳は絶対主義である。その典型としてマルクス主義があげられている。

「アメリカは資本主義的である。だがロシアも、それに、人的加工品を用いるいかなる経済もそうである。統制するのは資本家ではなく、企業家、そして最終的には消費者である。
  マルクス経済学は馬鹿げたことのかたまりである。だが、いうのは悲しいが、多くのナンセンスが、― 以下に示していくように レッセ-フェールの唱道者によっても敢行されてきた」(p.437)

ナイトの基本的スタンスは次に示すものである。

「レッセ-フェールはアナーキズムを意味し、弁護の余地はない。その反対の独裁は
醜悪である。しかし両極端は実際には不可能であって、一般原理として、レッセ-フェールかプラニングの一方を支持して、他方に反対するように論じるのは馬鹿げている」(p.437)

この論文のタイトルは、この意味で用いられている。

次のような歴史の叙述がみられる。

「例えば、12世紀から20世紀初頭までの全運動は、歴史上知られる最大の文化革命をみせている、と私は主張したい …。それは、従順と服従という一般的理想を自由と進歩という一般的理想 進歩のための自由、そして自由を通じての進歩 に換えながら、すべての価値の転換を遂行した。この言葉は知的行為のダイナミックを含意するものであって、「不可避的な」歴史的進歩を含意するものではない」(p.439)

つまり、進歩を通じて自由が、そして自由を通じて進歩が実現されていったのであり、この過程は「知的な行為」の動学と言える (自生的なものではない)

「私はただ、求められている知的行動は、個人的であると同時に集産的であること、そしてレッセ-フェール原理は不可能なレベルでの個人的インテリジェンスを想定し、もし厳密にとれば、社会的行動を自由の監視に限定するようなものであること、に注意を喚起したい。このことは、かつて、そしていま普通に「個人的」自由を意味するものと受け止められてきたし、受け止められている。後述するように、これは馬鹿げている」(p.439)

「ここで「知的行動」というのは、個人的および集産的の両方においてである。
前者だけに求めるのは馬鹿げている。」

18世紀のイギリスでは、レッセ-フェールを説き、後の展開に照らして必要な制限が考慮されるのを残すのは、いくぶん弁解の余地があった。このことは現在では当てはまらない。しかしそのような説得が現在、文学的ならびにアカデミックなレベルで復活してきている」

こうしてハイエクとハズリットの著作とりわけここでは前者のThe Constitution of Liberty (1960)が取り上げられる
                                                                     
ハイエク批判

ハイエクが彼のうぬぼれの強い詳細な歴史において、主要な自由、すなわち思想と表現についての精神の自由に至る教会権力、宗教改革、ならびに宗教的寛容 そして特に代議制政府の成長 のような主要なことがらを挙げていない理由は、どの注意深い読者にも明白である。彼は政治的に組織化された自由を軽蔑している。

ハイエクが「政治的に組織化された自由」を蔑視していることへの批判である。

 立法者が自由な議論と投票を通じて選ばれ、それゆえに世論に責任を負う (p.443)
これはナイトの重要な強調点である。

平等 (equality) についてのハイエクの扱いはばかげている (absurd) (p.444)

機会均等 (equality of opportunity) についてのハイエクの扱いは馬鹿の極みであるといっ
ている。(p.445)
「自由」(freedom) と「権力」(power)の密接な関係を無視している点。

「不平等」( inequality) についてのハイエクの一般化の誤り

「逆に、私は、近代西欧に根付く自由社会というコンセプトは、法を変える人々の権利に根ざしていることを、示そうとしてきた。合意が成り立つのは、主としてその権利の上においてである。自由のためであれ、平和のためであれ、彼らはなんとか変化がなされることに同意しなければならない。それが諸問題が横たわる場所であり、人々が熱心な場所である。
この見解は、ルネッサンス期に教会から最高権力を奪った神聖君主から彼らへの主
権の委譲とともに現れた。これは、かつて法を作る無制限の権利を主張し、そしてそれは神聖で不変の法を監視するだけであった。ハイエクは、「国家」にたいし、神聖ではなく、後者の主張を行い、言葉のうえで自生的な「漂流」による変化を許容している。国家権力のためのいかなる根拠も与えられず、その性質について、われわれには、ただ、例外的にそれが積極的に行動する場合、このことは大多数の同意によって「民主的に」なされるべきであることが語られるのみである」(pp.448-449)

「人々は、彼らが最も社会的精神をもつ場合に、より有効な競争のために組織において協同しようとする性向を最も有する」

「人は、最も社会的な意識にある場合、より有効な競争のために、組織を作ってもっとも協同する気質をもっている」

「人々は自由であり、そして自由であって然るべきである。しかしこの言明ですら、「絶対の」真実としてなされるべきではない。交換は定義上自由である。しかし無制 
限の市場の自由は、一般的な理論および歴史的経験の双方によって示されるように、「耐え難き」結果をもたらすであろう。理想的な企業と民主主義はともに協力を含意する。だが、人間の性質と状況の現況にあっては、必ずしも公正な競争であったり、あるいは一般的な利点 個人的であれ、社会的であれ であるとはいえない。個人主義的分析において欠落している主要な事実は、ひとえに「競争」である。「ライバリー」は経済学の一般理論においては場所をもっていない。しかしそれは人間の性質における重要な事実であるがゆえに、双方の分野における実際主要な動機なのである。人間は、喧嘩好きな存在であり、社会的であると同時に反社会的な存在である」(p.450)

ナイトの基本的なスタンスのよく現れている箇所(注6)

「人間は社会的な存在であり、社会における自由は、協同 (association) の形式や条件への合意、すなわち、法にたいする自由な同意、あるいは「討議による統治」に依存している。」

「ハイエクにはこの概念への言及はない。ハイエクの本は、「法による統治」のプロパガンダであり、法の「作成」に反対するプロパガンダである。法は、伝統の自生的変化に委ねられている、とハイエクは考えるからである。」

「子細に読むと、ハイエクの自由の扱いに失望する。この読者[ナイト]は、個人的な自由や自由な社会という現実的な問題を明快に述べる真剣な努力を見いだせないでいる」。

つまり、ハイエクは自由の問題をまったく論じていないという主張である。

  自由と権力の関係 (ナイトはこの関係を重視する。ナイトの社会哲学を理解するうえでのキー・ワードである) をめぐるハイエクの批判はばかげている」(8)
 
家族という単位のもつ重要性(10)・・・この点については、「社会主義」(1940) でも言及がある。

社会正義という概念が馬鹿げているという点で、ナイトはハイエクに同意するが、ハイエクの論法は馬鹿げている、と一蹴している(注6)