2016年8月20日土曜日

“Free” Enterprise and Competitive Order(1947年)  平井俊顕







“Free” Enterprise and Competitive Order(1947

                                平井俊顕 


ハイエクのこの論文には驚きと意外性を感じる。政府活動や理性的な設計にたいしてのハイエクの否定的な姿勢がみられないからである。

そもそもこの論文のタイトルの意味するところだが、野放図な自由(これが “  ”書きの自由の意味するところだ)による「企業」はむしろ重要な競争的秩序の機能を損ねているというものである。そして政府が何もしないこととしてリベラリズムを解釈することは、社会主義者の行ってきたことと同様に、競争的秩序を損なうものであった、とハイエクは述べるのである。そしてリベラリズムとして、競争的秩序を有効に機能させるような政策を政府がとるものとする考えを主張しているように思われる。

自由主義者が、私有財産権と契約の自由を唱えるだけで、すべてが解決したかのようにふるまうのはおかしい、とハイエクは考える。それは、議論の出発点にすぎない、と。

パテントや登録商標、企業組織のような問題を持ち出して、ハイエクは、それらが物的な財や個人に適用される自由を、何の考察もなしに、無批判的にそれらの問題に適用することが、本来重視されなければならない「競争的秩序」の有効性を損なうことになってきた、と主張している。むしろ、政府による法的枠組みの維持を重視するような論調になっている。

そこで重要な検討課題が出てくる。
ハイエクの以上の考えは、彼の自生的秩序論とどのように折り合いがつくのか。競争的秩序(これ自体はハイエクにとっては自生的秩序であろう)は、受け身な性格のものである。人々の意図せざる結果として出現する文明・制度であるかぎり、人々はそれにたいして基本的に受け身であるからである。しかるにこの論文では、人々が「政府の活動の不存在」よりも、むしろ積極的な・理性的に考察された法的構造の樹立とそれを強制する政府の力を要請している。この2つのことは、はたして整合的に説明できるのだろうか。あるいはハイエクは整合的に説明しているのであろうか。またハイエク研究者はこの点についてどのような見解をこれまで発表してきているのであろうか。

ハイエクはこの論文で、意外なことに、金融・財政・失業政策などを論じるときに、それらを競争的秩序の前提条件として語っている点に注目すべきであろう。前者(金融・財政)については、自動的ルールを重視している。また失業給付金もその存在を肯定している。問題としているのは、それらが市場の機能にたいする干渉をいかに少ないものにするかという点にあるのであって、給付金が望ましいかいなかという問題ではない、と述べている。

ハイエクのこの論文で示される考えは、1947年のモンペルラン会議の創立総会で発表されたものである。これについて、参加者はどのような反応を示したのであろうか。それを知りたいものである。

1947年といえば、『隷従への道』が刊行されてあまり年数が経過していない。そこでは、少しでも計画化に社会が向かうと、その社会は隷属への道を転げ落ちるといったことを述べていた。だが、この論文での基本的スタンスは、計画化とはいえないにしても、人々が意識的に理性を働かせ、現代社会の様々な事情(特許、登録商標、企業組織、労働組合など)に、無反省的に「契約の自由」や「私有財産法」を適用することをやめ、適切な処置を考察していくことの必要性を唱えている。このとき、それは「隷従への道」の思想と背反するということはないのであろうか。

受け身な思想としての自生的秩序論だけでは、社会の現状にたいして積極的な提言を行うことは難しい。ハイエクがこの論文でみせる「積極性」はこうした反省の上に立つものなのであろうか。それともハイエクにあって、これは背反する問題ではなく、整合的に捕捉されている問題なのであろうか。また、ハイエク研究者はこの点をどのように解釈しているのであろうか。