(覚書 ・そのことで、イギリスは、予想していた戦後の経済的困難について、予想外 の事態の急展開により、アメリカとの交渉を余儀なくされる事態に陥った。 ・ケインズは、この交渉の事実上の責任者として、アメリカに向かう。そして イギリス側の現在、および直近に生じる財政的・金融的状況、およびイギリス側が考えるそれにたいしての案について、アメリカ側に説明する(5回にわたって開かれた)ところから、交渉は始まった。 ・対米交渉は、その前、レンド・リースから英米相互援助協定の締結に至るまでの長い交渉があったわけで、そしてそのイギリス側の代表者がケインズであったから、この選出は自然な流れである。 ・ケインズの説明は、当然だが、スターリング・ブロックの経済・財政状況を説明するものであった。これを読んでいると、「大英帝国」というイメージが 非常に色濃く反映されるものになっていることは明らかである。 実際には、スターリング・ブロック (ここにはColonies、インド、オーストラリア、カナダ、南アフリカなどが含まれている) のみならず、Payments Agreements を締結した国々も含まれている ・当然ながら重大な問題は、「スターリング残高」問題である。現在、「凍結されているスターリング残高」が自由にされてしまうと、ポンド危機が発生する。たとえば、インドがロンドンに保有しているスターリング残高をインドが自由に使えるようになれば、それはドルに交換され、そしてインドはドルでアメリカから物資を購入することが可能になる。この傾向が加速化すれば、即座にポンド為替は急落する。 スターリング・ブロックは、貿易と金融システムの統合化されたもので、そこにPaymensts Agreement が追加されているから、事実上の巨大な世界 貿易・金融システムになっている。そしてそこで使用されている通貨はポンド (スターリング) である。そして、これらの圏内で取引された結果の勘定残高はロンドンにある当該国の中央銀行口座に記帳されている。 それに中国やアフリカ植民地などの維持という問題も背後にはある。 ・ケインズの基本的スタンスとして、大英帝国の維持を最大限確保し、そしてアメリカと対等の状態で戦後体制を構築する。そのためには、国際的な理想主義に則った国際機構・システムを樹立することが不可欠である、とケインズは考えていた。そのうえで、大英帝国内部のことは、大英帝国内部での共同行為によって解決していく - これがケインズの基本的スタンスであったことは、ここで明記しておく必要がある。 ・当初は、アメリカ側もケインズの提案に好意的な対応を見せていたものの、そのスタンスはすぐに大きく変わる。 ・これは新興国アメリカから見れば、イギリス(大英帝国)は非常に「うざい」存在である。ケインズの方からすれば、いずれにせよ、困窮に陥っている大英帝国をいかにして救うのか、そしてそのためにどうしても頼らざるを得ないアメリカから、いかにして(つまり屈辱的な状況に陥ることなく)援助を得ることができるのかが最大の課題である。イギリス側のこうした立場・状況が分かっているアメリカ側からすれば、無条件で援助を差し出すことができないのは、一目瞭然であろう。 それに、アメリカ側には、大英帝国批判者が多く存在していた。ホワイトは言うまでもなくその1人である。 ・英米相互援助協定で重要な争点になった「第7条問題」に見られるように、アメリカ側はスターリング・ブロックの解体を大きな要求項目に掲げていた。 国際自由貿易体制の樹立を唱道するコーデル・ハルのような立場があり、それには特恵関税制度の廃止や「スターリング残高問題」の処理(つまりは国際通貨ポンドの地位をどうするのかに関係してくる問題)が大きな攻撃目標となったわけである。 ・インドについては、自治政府体制がとられるような状況が展開していたこと、については、ケインズも言及している。 ・イギリス側が最終的に打ち出したのが、プランAとプランB (p.568) であった。ポイントは、アメリカから無償援助金 (grant-in-aid) をもらい、そしてさらに借款 (利子付き) を得る、というような問題である。 Plan A: loan of $2.5 Plan B: loan $2.5 (ケインズは、インドや南アフリカから、残高の一部を棒引きにする案も 打ち出している。) ・実際には ・ケインズは、この交渉の途次、数度にわたり、辞任を表明していた。精神的のみならず、肉体的にも限界を超えることがしばしばみられ、リディアはそのたびに鳴き叫ぶシーンが展開していた。 ・この英米借款合意については、イギリス国内、とりわけ、メディアおよび政界において非常に不満の声が高かった。 ・ケインズの活動にたいして、大蔵省、イングランド銀行にあっても非常に批判の声が強く、交渉自体の停止を求めるほどの雰囲気であった。 ・イギリス側からケインズへの指令とか、イギリス側からの明快な交信というのは怠られがち(つまり内部的統一ができなくなっていた)であったことが明白である。 ・ケインズの1939-46年の活動は超人的なものであった。その最終的状況でこの借款交渉問題が生じている。この点を考慮して考える必要がある。 |