2017年10月3日火曜日

東・イラン・アフガン(・パキスタン)

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中東・イラン・アフガン(・パキスタン)

・戦後、画期な意味をもったのは、1956年のスエズ危機である。これにより、大英帝国・フランスは、米ソ2大大国の軍隊の撤退要求に応じざるをえず、世界体制のシフトが目に見えるかたちで行われることになった。そして中東地域では、ナセル・エジプトが指導的な立場を確立するに至ったのである。
 ナセルは、王国を嫌い、汎アラブ世界の樹立を夢見ていた。そしてインドのネルーとともに米ソと一線を画した非同盟グループを構想していた。 

 (大英帝国は、すでに財政的・軍事的にアメリカに大きく依存していたが、1947年あたりになると、インドの独立を承認せざるを得ない立場、さらに
  ギリシアの管理をアメリカに要請せざるを得ない立場、に追い込まれており、すでに覇権国家としての地位を喪失する兆しを見せていた。しかし、それでもイギリスは当分のあいだ、かつての地位をなんとか維持していたのである。そうしたことがスエズ危機で瓦解することになった。)

・第3次中東戦争 (1967年の「6日戦争」)は、こうしたナセルのカリスマ的地
位をこなごなにするものであった。イスラエル空軍により、エジプト空軍機
は壊滅的になり、イスラエルは、ヨルダン川西岸、ガザ、ゴラン高原、そし
てシナイ半島を支配下におさめることになった。ナセルをその責任をとり、
大統領職を辞任しようとしたが、国民の声におされて、その地位にとどまっ
た。が、1970年に病死し、ここにナセル・エジプトが中東を指導するという
形態は終焉を迎えることになった。

・継承者サダトは、エジプトの栄光を取り戻すべく、対イスラエル戦略をねっ
ていった。ソ連からの最新兵器の導入、そしてシリアとの共同作戦でイスラ
エルに宣戦布告した。この戦争は当初、エジプト軍の勝利が続いた。だが、
途中からイスラエルは反撃に転じた。こうしたなか、そのバックにいたアメ
リカとソ連のあいだに、核戦争の危機をもたらすような緊迫した状況が展開
することになったのだが、結果的にはソ連が手を引くことでこの第4次中東
戦争 (1973年) は終了することになった。

・この戦争は、中東の地政学的状況を次の2つの点で変えるものであった。1つは、サダトは、ソ連からアメリカへ軸を移すことになり、そしてイスラエルとの和平交渉に臨むに至った点である。その成果がキャンプ・デーヴィッドでのいわゆる「オスロ協定」である。これにより、エジプトはシナイ半島を返還されるとともに、イスラエルを国家として承認する、ということになった。ガザやヨルダン川西岸はそのままイスラエルが実質統治下に納めたままになった。
  もう1つは、オペックに象徴されるようにサウジを中心にした石油産出国の地位が飛躍的な向上を見せた点である。欧米メジャーの支配してきた中東石油の所有者が自らの主張を強行することに、このカルテル機構を通じて成功するに至ったからである。

・これらの結果、エジプトはそれまでの対イスラエル闘争のリーダーの地位を喪失することになり、実質的にエジプトの地政学的役割は消滅するような状況になった。変わって、現代経済の根本的資源である石油をめぐる支配権の確立を通じ、サウジなどの諸国が中東地域で大きな影響力を発揮する時代が到来するのである。

・イスラエルはその後、レバノンに攻撃をしかけることになった。

・1970年代の終わりには、これらの地域で大きな戦闘が同時的に発生することになった。1つは、イラン革命である。そしてこの混乱に目をつけたフセインはイランとのあいだに熾烈な戦争を展開することになる。イラン・イラク戦争である。さらに、同じころ、ソ連がアフガンに出来た新たな共産主義政権を支援する目的でアフガン侵攻を開始した。この戦争は、反ソ勢力にたいし、アメリカやサウジが強力な支援をすることで、ソ連を非常に苦しめることになり、ついにはソ連の崩壊につながる重要な要因になったのである。

・この戦争において、反ソの重要な勢力となったのが、タリバンである。タリバンは、パキスタンの支援のもと(そしてサウジの支援のもと)強大な武装闘争を展開していくことになった。そしてタリバンと協力体制にあったのが、オサマ・ビン・ラデンのアルカイーダである。今日、「テロリスト」と名指しされて呼ばれている集団は、こうした情勢の下で生まれたものである。イスラエルやトランプがイランをテロリスト国家と糾弾しているが、これは意図的なねつ造である。テロリスト支援はサウジのワラビ派により支援・育成されてきたのである。

・エジプトがイスラエルと友好条約を結ぶことで、パレスティナ問題は、エジプトから離れ、パレスティナ人により部相当組織が編成されることになる。それがPLOである。PLOは当初武装闘争に明け暮れるが、次第に共存体制方針をとるようになり、その結果成立したのが、アラファトとイスラエル首相の間で結ばれた1996年の条約である(クリントンの仲立ちによる)。いわゆるイスラエルとパレスティナの2国統治の承認である。しかし、これにたいしてあくまでもイスラエルを認めない派は、袂を分かち、ガザ地区にたてこもるというような事態に陥っていくことになるのである。

・パレスティナ問題は、いつしかパレスティナ人による闘争へと変化するに至り、イスラエルは、第3次中東戦争での実効支配する地域のうち、ヨルダン川西岸にはイスラエル人の大量入植行為を続け、またガザ地区にたいしては兵糧攻め的封鎖をいまも続けるに至っている。

・そして2011年の「アラブの春」というだれも予想していなかった現象が遠くチュニジアから始まり、エジプトのムバラク体制の崩壊、リビア・カダフィ体制の瓦解、さらには(すでに処刑されていたフセイン後のアメリカ軍の統治の失敗により)イラク体制の崩壊とイスラム国の台頭、という事態が次々に展開することになる。シリアは内戦でめちゃくちゃになったままである。さらに、アフガンは2001年にアメリカ軍がタリバン政府を打倒するも、あれから16年がたった現在、タリバンは顕在でかなりの地域を支配するに至っている。

・現在の中東では、イランはシリア・アサド、イラクに大きな影響力を有している。そして、このイランを敵視しているのが、サウジとイスラエルである。
 トランプはこの尻馬に乗っている(アメリカは伝統的にこの立場に立っているがトランプは一層露骨である)。

・また、イエメンにたいし、サウジは国際的に非難を浴び続けるような爆撃を民間施設に継続的に行っており、そのため多くの難民やコレラの蔓延などが見られる悲惨な事態に陥っている。

・いまの中東、アフガンがいつ戦火を終え、和平にこぎつけることができるのか、だれも自信をもって言えるものなどいない、のが実際の姿なのである。
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