2013年8月8日木曜日

市場社会とは何か








平井俊顕編著、上智大学出版、356ページ

      平井俊顕
これらの著者の書物は読まれていない.万が一それらを手にするとしても,彼らの見解をとんでもないものと人は思うであろう.にもかかわらず,もしホッブス,ロック,ヒューム,ルソー,ペイリー,アダム・スミス,ベンサム,そしてマルティノー夫人が実際にしたように,考え,そして執筆していなかったなら,人は現在考えるようには考えていないだろう,と私は思う.思想史を研究することは,人間精神の解放にとって必須の準備作業である.現在のことしか知らないのと,過去のことしか知らないのと,いずれが人間を保守的にするのかは,何ともいえない(ケインズ『説得論集』p.277).
I. 市場社会論
「市場社会とは何か」 ― これが本書を通じて,私たちが追究しようとするテーマである.これまでに市場社会をめぐり展開されてきた立論を,私たちが格別の関心を寄せる思想家を対象に検討することで,その多様性を読者諸賢に提示すること,そしてそのことを通じ,巷間のみならず経済学界に普及している「経済思想」にまつわる偏見と誤謬を是正すること,そしてそのうえで市場社会の今日的状況をとらえるうえでの確たる知的ベースを提供すること,これが本書の目的である.冒頭にいう「人間精神の解放にとって必須の準備作業」を試みようというのである.
最初に,本書で市場社会という概念がいかなる意味で用いられているのかを説明することにしよう.
市場社会とはあらゆるモノが商品として市場で取引されるようになっている社会のことである.何よりもそれは,労働(および土地)までもが商品化された社会  労働市場(および不動産市場を有する社会  として特徴づけられる.人間社会のこのような市場化は,長い年月をかけて進展してきた.この現象は,分業の進展と,それによって必然的になってきた貨幣を媒介とする取引の浸透を機軸に,次第に人間社会の周縁部から中枢部へと浸透していった.
今日の先進諸国は市場社会の現時点での完成形態である.それは概略,次のようになっている.私たちは企業に職を得,そこで働くことで給料を得る.企業は,わたし達の労働サービス,それに種々の設備を活用して,商品を生産する.そしてわたし達は給料でそれらを購入する.こうしたことが,無数の人々,無数の企業によって日々行われている.無数の商品・サービスの取引が,互いに何の面識もないのに円滑に行われているのは,「市場」が存在するからである.売り手,買い手のあいだに面識がなくても,この市場という機構 ― 慣れすぎていて,だれもその魔力性に気づくことのない不思議な存在 ―を通じて,売買が円滑に進行していく.個人的靱帯は解体され,諸個人が自立した存在になった社会,そして「市場」を通じて結成されたネットワーク社会.これが本書でいう市場社会である.
 以上に述べた市場社会という概念は,これまで慣習的に用いられてきた「資本主義」社会という概念と同じ対象を扱っているといってよい.「資本主義」社会という概念には,経済社会を動かす主役を「資本」に措定し,それが自己増殖運動を引き起こすという視点が色濃く現出している.これにたいして,市場社会という概念には,同じ社会を対象としながらも,「市場」,「市場化」に大きな関心が寄せられている.したがって,視点に差異はみられるが,同じ社会を対象にしていることには変わりはない.マルクス風にいえば「下部構造」により「上部構造」が支配されている社会であり,ポラニー風にいえば,「経済」が社会を規定している社会である.
本書でいう市場社会論は,上記の意味での市場社会について基本的な考察を行う分野である.すなわち,市場社会はどのように評価されるのか,そしてそのことはどのような理論・根拠に基づいてなされるのか,またその評価に基づいてどのように変革していく必要があるのか等々について考究する領域である.市場社会の本性を問い,それに価値判断を下し,そしてどう行動すべきかを問うのである.
 市場社会論は社会哲学の一分野といえる.社会哲学は市場社会を扱うとはかぎらない.人間の社会は多様だからである.だが本書で検討を加える主要な舞台は,経済活動が市場取引を機軸に展開される近代社会である.そしてこの舞台こそが,経済学がその生誕以来,圧倒的な関心を払ってきたものである.
本書で扱う「社会哲学」のイメージは,ケインズ『一般理論』の最終章「一般理論の導く社会哲学に関する結論的覚書」に近い.哲学的考察に走るのではなく,むしろ経済学者が経済理論を展開する前提として有するシュンペーター的意味における「ヴィジョン」に近接する概念である.
経済学は,益々,細分化・技術化の傾向を強めてきており,その結果,こうした大きなテーマは,社会科学としての経済学,もしくは職業としての経済学にふさわしくない大言壮語の営みとみなされるやもしれない.だが,このような評価・スタンスは,本当に正当化できるものなのであろうか.この疑念がわたし達の問題関心の背後には存在する.わたし達が経済学を学びたいと思った最初の動機は,わたし達が生活を営む社会である市場社会を理解したかったからではなかったのか.わたし達は,あえてこの原点に立ち戻り,この大きなテーマに挑むことにした次第である.
 経済思想史には,対象をその時代的コンテクストに即して分析するという課題と,現在の経済学の状況を多様な歴史的・空間的視座から分析・批判するという課題がある.本書では前者に重点がおかれているが,これは後者の課題にとっての「必須の準備作業」であると考えている.
 細分化・技術化の傾向を強める今日の経済学には重要な欠陥が存在する.医学の発達が優れた専門家を育てる反面,基本的な診断ができない医者を輩出するのと似通った事態が経済学にもみられる.1つのパラダイムに属して経済学をみるという現在の傾向は,その内部での議論を深化・進化させる半面,そのパラダイムを意識的・無意識的に絶対視することから生じる狭隘性に研究者を追いやる.多様なパラダイムを学ぶことでみえてくる経済学の世界を提示することの重要性は,知識の分業化が進む今日であればこそ,大きいのではなかろうか.
 このような基本認識に基づいて,本書では,18世紀後半から現在に至る(1つだけ中世ヨーロッパを対象としている)欧米の代表的な経済思想家を取り上げ,彼らがどのような市場社会論を展開したのかを掘り下げてみたい.そのさい,わたし達は次の諸点にとくに注意を払うことにした.
1. 彼らは市場社会をどのように評価しているのか(肯定的になのか,批判的になのか,あるいはその中間なのか,そしてそれをどのような理論・根拠により展開しているのか,またそれをどのように改善していくべきと考えたのか.
2. 市場,企業,経済主体,政府等について,どのような考えを提示しているのか.
3. 彼らの市場社会論は現在の社会を考察するうえで,いかなる意義・含意を有しているのか.
4. 彼らの市場社会論をめぐる近年の研究動向はどのような状況にあるのか.
本書は,以上のような問題意識のもとで2003年4月に立ち上げた研究会の成果である(このさらなる発端は,編者が主宰してきている「市場社会をめぐる研究会」[2001年3月発足]に求められる).この間,6度にわたり研究会を開き,各自の報告をめぐり活発な討議が重ねられた.とはいえ,わたし達はけっして意見・見解の収斂を目指しているわけではない.また各章は,相互にコメントを行うことで大いなる改善をみているが,その判断は読者諸賢に委ねられる. 全体としての統一性については編者の,また各章の内容については各執筆者の責に帰することは,論をまたない.
II. 市場社会の歩み
 意外に忘れられている事実,それは,イギリスが敷いた市場社会化路線の上を,世界は依然として歩んでいる,という点である.
「市場社会とはあらゆるモノが商品として市場で取引されるようになっている社会のことである.何よりもそれは,労働(および土地)までもが商品化された社会  労働市場(および不動産市場を有する社会  として特徴づけられる.」
先ほど,このように市場社会を定義したが,真の意味でそうした社会が出現するに至ったのは19世紀前半のイギリスにおいてである.その最大の特徴は,労働者階級と産業資本家階級の出現(いずれもいまでは風化した感のある概念である)にあるといってよい.産業革命の発生によって,人々はいわば「悪魔の挽き臼」に投げ込まれ,工場生産システムのもとで働く労働者と彼らを雇用する産業資本家が「階級」として出現するに至ったからである.こうして市場メカニズムという経済的論理が社会の他の論理を圧倒する社会が,人類史上初めて誕生することになった.
 以降,今日に至るまで,世界はイギリスの後を追いかけて市場社会の形成に邁進してきたといっても過言ではない.当初はドイツ,アメリカが,そしてその後を追って日本(明治の「富国強兵」政策)が,さらに近時では韓国,台湾,そして現在では東南アジア諸国,中国がその後を追いかけて,社会の産業化,市場化を押し進めてきている.興味深いのは,成功した市場経済は,「市場原理主義」に従うことで生まれてきてはいないという事実である.イギリスやアメリカをのぞけば,賢明な官僚と優れた企業者が共同歩調をとることで社会の産業化・市場化に成功してきているのである.逆に,そうした要素を欠く社会は,「市場原理主義」という外部からのイデオロギーを受け入れることで,いたずらに社会的・経済的な混乱・低迷を招いてしまっている.
 あらゆるモノが商品として市場で取引されるようになっている社会」というとき,私たちは一般均衡理論の想定するような静態的な市場が支配する社会を意味しているのではないことを,ここで強調しておく必要がある.市場社会を特徴づけるものは,何よりもそのダイナミズムにあるからである.市場社会は成長を本質とする動態的な社会システムである.それは二重の意味で動態的だ.一方で,市場社会は,分業の進展と競争を通じて,そしてそれらが誘発する技術革新を通じて,生産の増大・成長をもたらす.他方で,社会の市場化は,既存の社会システム・制度(それは伝統社会であったり,既存の産業であったりする)を浸食・破壊していく(近年の中国社会をみよ).市場化の論理は凄まじい力でもって自己を貫徹させようとする性向(「解き放たれたプロメテウス」)を有している.市場社会は成長衝動を内包するシステムであり,その爆発力が既存システムを破壊するために不安定性(変動)を内在しているのである.このプロメテウスをいかに制御できるかは,各国がその市場社会化に成功するうえでの,じつは依然として重要な今日的課題なのである.
III. 概要
 本書は,内容上,3部に分けられている.「市場社会の特性を探る」,「社会主義経済計算論争参加者の批判的思考」,第「ニュー・リベラリズム的展開」である.
  第Ⅰ部では,市場社会を特徴づける特性を検討した論文が配置されている.すなわち,トマス・アクィナス,ヒュームとスミス,ワルラス,マーシャルを対象として,自らの生きた市場社会の特徴をいかなる点に見出していたのか,そしてそれをもとにどのような市場社会観を打ち出していたのかが検討されている.
 第Ⅱ部では,20世紀の世界を規定づけてきた2つのシステムである市場社会(=資本主義社会)と社会主義をめぐる有名な社会主義経済計算論争に深く関わった思想家の思考を対象とする論文が配置されている.ミーゼス,ハイエクという市場社会を肯定し,社会主義を批判する思想家,それとは逆の立場に立つランゲとドッブ,ポラニーとシュンペーターを対象に,彼らの批判的思考が詳細に検討されている.
 第Ⅲ部では,資本主義賛美でもなく,社会主義賛美でもない,むしろその中道を行く思想  これがここでいう「ニュー・リベラリズム的展開」である  をテーマとする論文が配置されている.ここでは,グリーンとホブソン,ケインズおよび彼の同僚,ミュルダール,クラークとナイト,ロビンズとベヴァリッジが検討の対象となっている「ニュー・リベラリズム」という用語は,元々はホブソン等の立脚する思想であり「自由放任」的な旧来のリベラリズム(イギリスの「古典的自由主義」に替わるものとして提唱されたたものである.今日「ニュー・リベラリズム」は旧来のリベラリズムの復興を意味するものとして使われることが多い.本書では「ニュー・リベラリズム」(これを訳した場合「新自由主義」)は前者の意味で用いているので注意が必要である.
なお,本書でいうニュー・リベラリズムの論者のなかに,ナイトやロビンズが含まれているのを,けげんに思われる読者も少なくないであろうが,そのもつ意味は当該章を読むことで納得されるであろう.
以下,各章の概要を紹介していくことにしよう.
           
1. 第I部 市場社会の特性を探る
第1章 「職分正義共通善」では,中世スコラ哲学の大成者トマス・アクィナスが市場社会をいかにとらえていたのかが論じられている.トマスは市場を共通善実現の場として論じる.その前提の下で具体的な商業は,個々人の社会的機能分担 (職分)と個々人間の関係(正義)の観点から位置づけられる.だが,そうした市場での個々人の活動はあくまでも「社会的動物」としての人間的協働行為にすぎない.したがって,トマスは単純に物財充足を志向することのみが市場での行為ではなく,それは相互扶助の位相へと高められる必要があると考えるのである.
第2章「経済発展と不平等」では18世紀を代表する2人の思想家,ヒュームとスミスを対象にして,経済発展と不平等の関係を彼らがどのように理解していた考察されている.ヒュームは,経済発展のためには,勤労を刺激する所得の不平等が絶対に必要であると考えたが,労働者と非労働者の極端な不平等には批判的であった.他方,スミスは,未開社会から文明社会への経済発展にう不平等の拡大を容認したのであるが,文明社会の一層の発展とともに平等化が進むと予想した.
第3章 「市場・国家・アソシアシオン」では,今日,新古典派経済学の1つの重要な基盤を構成している一般均衡理論の創設者ワルラスの真の社会哲学が検討される.ワルラスは,一般均衡理論によって市場経済のメリットを論証しただけではない.同時に彼は,現実の市場社会がもたらす否定的側面,すなわち貧困や失業などの社会問題にも目を向けた.ワルラスは,市場・国家(土地国有化・労働立法・公教育と人口抑制)・アソシアシオン(労働組合・共済)の相互リンクからなるレジームを構想することによって,競争のもたらす有害な効果を防ぐことも可能であると考えていた. 
第4章「知識・組織・潜在能力」では,マーシャルの思想をめぐり,近年盛んとなってきている見地(題名がそれを象徴している)からの検討が加えられている.マーシャルは,「能力の健全な行使と発展」を幸福の源泉と考えたから,「経済人」の仮定を放棄し,主体が生産能力を獲得していくプロセスの解明を重視した.分業の進展とともに高度化する生産知識の獲得には企業組織が不可欠であると考え,また,生産知識の獲得は速やかには実現されえないから,学習プロセスの途上で準地代が生じると考えた.「正常」概念は,生産知識の不均一所有の状況を時空限定的に把握するための装置である.
2. 第II部 社会主義計算論争参加者の批判的思考
第5章 「進化論的・社会的合理主義」では,ミーゼスの社会哲学・経済哲学が取り上げられている.それは進化論的・社会的合理主義として理解すべきである.「稀少性」を条件として獲得される「理性」が,分業と協業の利益を認識し,それ「社会」によって実現されると主張する点でミーゼスは「合理主義者」である.しかし,社会の発展が長期的な進化過程の結果であり,また,理性の発現を可能とする貨幣価格による経済計算の可能性と,その社会的プロセスによる形成強調する点で,ミーゼスは進化論的・社会的合理主義者であった. 
第6章「法人資本主義論」では,ハイエクが主張した「市場規制」について論じる.あまり知られていないことだが,ハイエクはある特定の条件のもとでは人々の市場での自由な経済活動を制限することを認めていた.本章では,ハイエクの資本主義論を題材にして,高度に情報化された資本主義社会での知識や情報の問題を考察する.ハイエクの提出したさまざまな概念は,現代資本主義を分析するうえで有効な道具となりうるが,その反面,彼の採用した方法論的個人主義には限界があることを指摘する.
第7章「社会主義の合理的存立可能論」では,ランゲとドッブの社会哲学が検討されている.社会主義システムの破綻は,「社会主義」の存在意義をゆさぶる事象であった.他方で,金融のグローバリゼーションは資本主義諸国の政治経済システムの不安定性を助長してきている.「社会主義と資本主義はどこに向かうのか」(=「双対問題」)をみるために,これまでの社会主義の思想と理論を再考する必要がある.20世紀初頭に始まった「社会主義経済計算論争」は,いまなお多くの論者を引き付けてきている点を想起しつつ,本章ではその現代的再評価を上記2名の比較検討を通じて明らかにする.
第8章「リベラル・インターナショナリズム批判」ではポラニーとシュンペーターの市場社会像が考察されている.両者とも大戦間期に中欧から北米に移住し,市場社会のグローバルな展開を支えるリベラル・インターナショナリズムを経験したが,マルクス主義的な帝国主義論・資本主義論の視点を生かし,市場社会を批判的に分析した.市場社会は平和を志向するが,人間その他を商品とするため不安定性を内包し,政治などすべての社会領域を経済秩序に従属させつつ増殖する.
 (なお,「リベラル・インターナショナリズム」という概念は,本書でいう「ニュー・リベラリズム」とは対立する概念であり,古典的自由主義の国際ヴァージョンとでもいうべきものである.
3. 第III部 ニュー・リベラリズム的展開
第9章「古典的自由主義の修正と資本主義分析」では,古典的自由主義の修正過程で重要な役割を果たした2人の思想家が検討されている.理想主義の祖グリーンは,社会成員の「人格の完成」のために,国家干渉主義を社会哲学的に正当化した.しかし,グリーンは資本主義における「人格の完成」の阻止要因を析出する経済理論をもたなかった.この限界を超克し,資本主義の疾患を自己の経済理論・過少消費説に基づく分析によって国家干渉主義にたいし経済理論的な基礎を提供したのは,ニュー・リベラリズムを代表するホブソンであった.
第10章「市場社会の悪弊とその除去」では,戦間期ケンブリッジの市場社会観を,その指導者たるケインズ,ピグー,ロバートソン,ホートリーを取りあげて,明らかにする.彼らにあって,市場社会システムのもつ悪弊 (所得分配の不平等や失業) に注目し,いかにしてそれを除去するのかに観察の力点がおかれている.同時期,彼らの経済理論は激しい論争と分裂を引き起こしたのであるが,反面,社会哲学的には相当程度の共有点が認められるのである.
第11章「福祉国家の唱道」では,ミュルダールの市場社会観が検討されている.彼は,貨幣理論,経済学方法論,開発経済論,福祉国家論など,幅広い分野で業績を残した.その間,彼自身の方法論的立場や分析枠組みも少なからず変化したが,それにもかかわらず,彼の市場社会観は一貫していたといえる.ミュルダールは一貫して自由放任経済に批判的であり,第二次大戦後はスウェーデンでの福祉国家の成功を背景として,市場社会における平等の実現を追求したのである.
第12章「「自由主義」の変容」では,アメリカ制度派の代表者クラークと新古典派の代表者ナイトが取り上げられている.第一次大戦後,19世紀的な「自由主義」の変容をともにみて取った2人は,大恐慌からニューディールへと至るアメリカ経済社会の激動のなかで,「制度派」と「リベラル」(クラーク)と「新古典派」と「古典的自由主義の再擁護」(ナイト)と,異なる立場をとっていくことになる.本章では彼らの歩みを通じて,戦間期アメリカにおける「「自由主義」の変容」に焦点を当てる.
第13章「「連邦主義」にみる自由主義」では,ロビンズとベヴァリッジに焦点がおかれる.両者とも本源的自由を堅持しながら,ある種の設計主義(計画性)をとる.前者はこれを「国際的自由主義」(これは既述の「リベラル・インターナショナリズム」とは異なる概念であることに注意されたいと呼び,後者はこれを「根本的計画をもつ自由主義」と呼んだ.両者の立場は「ニュー・リベラリズム」である.対立ばかりに注目が集められている両者だが,連邦主義という題材では,むしろケインズ等の中道的な考え方をLSEにおいて醸成し発展させていた.これを「協働作業」と呼ぶのは不適切ではないであろう.
 以上,重要な思想家を対象にして,さまざまな視角から市場社会にたいし検討を加えてきた.最後に,市場社会論と経済理論との関係をめぐる全体的な眺望と輪郭を提示しておきたい.終章「市場社会論と経済理論の関係」がそれである.本書で扱われている思想家のほとんどは経済学者である.そこで,経済理論に興味をもつ読者諸賢がぜひとも知りたいと思うであろう問題,すなわち,社会哲学と経済理論はいかなる関連をもちながら展開してきたのかという問題に焦点を当てることにした.具体的には,20世紀初頭から現在に至る時期を対象に,この問題が4つの時期に分けて鳥瞰されている.