2013年8月6日火曜日

ケインズは資本主義を救えるか - 危機に瀕する世界経済




『ケインズは資本主義を救えるか - 危機に瀕する世界経済』
昭和堂、2012年、346ページ



プロローグ
現在の世界経済は、この20年間に限定しても、じつにめまぐるしい変貌を遂げてきている。
80年代の後半から社会主義圏の崩壊が始まり、1991年にはその指導国ソ連が崩壊し、ここに戦後世界を規定していた冷戦体制は終焉を迎えた。
資本主義圏でも、経済的には日本や西ドイツの経済的発展がめざましく、アメリカはこれらの国に押されて、70年代に入ると国際通貨体制や貿易構造に大きな変化が生じていた。やがて80年代に至ると、スタグフレーションと双子の赤字に苦しむアメリカを尻目に日本の経済的躍進が際立つようになった。80年代後半は円高不況を克服しようとして遂行された日本企業の技術革新力が際立っていた。
しかし、90年代に入ると、状況に大きな変化が訪れる。ITテクノロジーに基盤をおく情報通信産業、ならびに金融のグローバリゼーションを通じての金融部門がアメリカで大きく開花したのにたいし、日本はバブル対策の失敗から、以降現在に至るまで、いわゆる「失われた20年」に苦しみ、そのプレゼンスを著しく喪失してしまうことになった。
さらに、崩壊したソ連圏諸国は、いわゆる「ショック療法」による急激な資本主義化を行い、大きな混乱と混迷を続けることになったが、1人、中国は「漸進的改革」路線のもと、着実な資本主義化に成功し、90年以降からは年率10%を超える経済成長を達成し、いまではGDP第2位の経済大国として世界経済に大きな影響力を与える国に変貌を遂げている。
そしてそれは中国だけではなく、いわゆるBRICSと呼ばれる「新興国」が急速な経済発展を遂げることで、世界の経済構造におけるプレゼンスを飛躍的に上昇させてきている。
わずか20年のあいだに、世界経済は上記のような変貌を遂げてきた。
この変貌のなかで資本主義システムは90年代になると、不安定性を増大させてきていたが、それが爆発したのが2008年秋の「リーマン・ショック」であった。
本書が取り上げるのは、主として2008年前後から現在 (2011年7月) に至る世界経済のさらなる変動を、アメリカ、EU (そして付随的に日本)を取り上げながら、社会哲学的、経済政策的検知から検討を加えていくことである。そのことを通じて、資本主義経済とは何なのか、資本主義はいずこへ向かおうとしているのかを追究することを目的としている。
 現在、アメリカ経済は政治的な行き詰まりと政策的な失敗により大きな不安を抱えており、いまはデット・シーリング危機によりシャット・ダウンが引き起こされる危険性がある。またEUでは状況はもっと深刻である、ユーロ危機に陥っている。これらの地域の金融・財政システムに亀裂が走るとそれらはただちに世界中に波及し、ふたたび第2のリーマン・ショックの到来を招きかねない状況下にある。即時的にはこれらの状況の進展とその理由を考察することに大きな関心がおかれている。
***
本書の内容 ― 4部で構成される ― をあらかじめ簡単に紹介しておくことにしたい。
I部では、資本主義をとらえる本書の基本的な視座が提示されている。
第1章「資本主義はいずこへ」では、2008年9月に生じた「リーマン・ショック」がもたらした社会哲学、経済理論・経済政策論における大きな転機 ― 「ケインズ=ベヴァリッジ」体制の現代版の出現 ― を取り上げ、資本主義社会がいずこへ向かおうとしているのかが検討されている。
 第2章「社会哲学はいずこへ」では、この30年間に展開された資本主義を対象に、「社会の根本的価値基準」・「社会の洞察と評価」・「社会のあるべき道」の検討がなされたうえで、資本主義システムのあり方が問われている。
 第II部では世界の専心経済圏、アメリカ、EU、日本の経済の現在が検討されている。
第3章はオバマ政権が採用した経済政策の評価である。未曾有の経済危機・経済不況に直面し、オバマ政権が採用した経済政策の理念と具体的な実施状況が検討される。とりわけ財政策が当初の計画に反して不満足なものに終わってしまったのかが重要である。2009年2月に華々しく成立した「アメリカ復興・再投資法」だが、それは極端に実施速度が遅く、そうした事態を打開しようとした2009年6月の「雇用法」も失敗に帰し、2010年3月には非常に小規模の「リード案」で終焉を迎えることになった。その後は、緊縮財政の声が強くなり、オバマ政権の財政政策は、7月のトロントでのG20、11月の中間選挙を経て、完全に失敗してしまったのである。第3章では、そのほか、同時期にどのような金融政策がとられたのかについて言及されている。
 第4章と第5章ではオバマ政権が行おうとしている重要な二大制度改革が取り上げられる。いずれも歴史的な重要性をもつものである。
 第4章では「包括的健康保険改革法」が扱われる。アメリカには3100万人に達する無保険者がいる。オバマ政権は、彼らにたいし政府主導のセーフティ・ネットを構築することの必要性を訴えた。それはアメリカ資本主義の公平な展開と健全な成長にとって、また行き過ぎた貧富格差の是正のうえで、不可欠のことと考えたからである。本章ではこの法案が2010年3月に成立するまでの経緯、その具体的内容がフォローされている。そしてその後の具体的な制度づくりがどのように進められてきているか - じつは中間選挙での敗北もあり、非常に進展は問題を抱えたままである - のかが示されている。
 第5章では金融規制改革法が扱われる。オバマ大統領は、近年国際経済の不安定性、ならびに2008年秋のメルトダウンは、シャドウ・バンキング・システムの肥大化によって引き起こされたものであり、これを金融当局の規制下におくことが国際経済の安定化にとって必須であることを、きわめて強く認識ていた。オバマ大統領、このことを金融規制改革案としてというかたちで公表したのは2009年6月であったが、以降、非常に困難な上下両院での審議の末、ドッド=フランク法として成立をみたのは2010年7月のことである。これは金融の極端な自由化の結果成立したグラム=リーチ=ブライリー法 (1999年。GLB法) の廃止、ならびにグラス=スティーガル (1933年) の現代的復興を意図したものである。第5章では、ドッド=フランク法がどのような経緯を経て成立したのかがフォローされたうえで、同法の具体的特長が検討される。そして同法が実施に移される過程で、非常な困難に遭遇している様子が語られる (因みに、第5章は第9章と対になっている)。
  第6章では、もう一方の先進地域EUにおけるユーロ危機が取り上げられている。1999年1月に決定された統一通貨ユーロはドルに対抗しうる国際通貨として、つい最近まできわめて高い評価を受けていた。当初、11カ国で始まったユーロ圏には、加盟を希望する国が相次いだ。ところが、ユーロ圏で、ユーロであるがゆえに生じていた危険性・脆弱性が、リーマン・ショックの衝撃波を受け、タイム・ラグを伴いつつ、2009年ギリシア財政危機として現出することになった。EU指導国が対策に手をこまねいているうちに2010年5月になると、同様の問題がPIGS問題に拡大し、事態は一挙にユーロ危機へと急速な展開を遂げることになった
第6章では、ユーロがどのような脆弱性を有するものであったのかをみたうえで、具体的なユーロ危機の進展をみていくことにする。続いてそれにたいしユーロ首脳はどのような対策たのかをみたうえで、ユーロ圏が抱える不安な今後をみることにする同章では、さらにその後の現在までの経緯をフォローしたうえで、ユーロ危機について、原理的な視点から考察することにしたい。
 第7章では、バブルが崩壊し経済状況が急激に悪化した1990年代初頭以降、今日に至るまで日本経済はどのような道をたどってきたのかこの過程のなかでどのような政策実施されてきたのか、そしてそれらを私たちはどのように評価すればいいのかを論じる。最初に20年の経緯とそこでとられた経済政策をみることにする。そのうえで次のような結論を下す。この期間のパフォーマンスが低いというのはGDP(あるいは失業率という基本指標でみるかぎり、当てはまらないこと、政府の経済政策が失敗したとすればそれは日本経済成長路線に乗られなかったということ、そして結果的に世界経済に占める日本経済の顕著な低下現出してしまったということ、これである。
  III部では、現在資本主義についての批判的考察が試みられており、第I部に通じる。
 第8章では、「資本主義とはどのようなシステムなのか」― を次の構成で検討する。最初に、資本主義とはどのような本質的特性を有するシステムであるのかを説明し、続いて、資本主義システムに潜む「アバウトさ」(あいまいさ)という点に着目する。最後に、この20年間に生じた重要な現象である「資本主義への収斂」という現象を、「社会主義」システムの登場と崩壊、資本主義システムへの移行過程 (ロシアと中国のケース)、米中の相違という問題をめぐってみることにする。
第9章では、金融の自由化と不安定性が扱われる。この30年間「ネオ・リベラリズム」の信条に基づ、金融、労働、資本の分野での自由化が、文字通りグローバルなスケールで進められてきた。そのなかで最も重要なのが金融の自由化である。本章では、それがどのように進められ、そしてそれがどのように世界経済を不安定なものにしてきたのかをめぐり、具体的な経緯 、その批判的評価、そのことのもつ問題性、ならびに金融規制改革の必要性に、焦点を合わせて述べていく。本章は第5章と密接に関連している。
第10章では、グローバリゼーションという現象が検討されている。これは「地球規模での市場経済化現象」と集約的に表現できる。これは「金融のグローバリゼーション」と「市場システム [もしくは資本主義] のグローバリゼーション」に分けることができる。本章では、グローバリゼーションがもたらした世界の政治経済システムへの大きな3つの変化 - (i) 米英金融資本による主導権奪取(「金融のグローバリゼーション」による)、(ii)米ソ冷戦体制の崩壊と資本主義システムへの収斂(「市場システムのグローバリゼーション1」による)、(iii) 新興国の出現(「市場システムのグローバリゼーション2」による) ― 本章ではこれらを順次、検討していく。
IV部では、第11章として、リーマン・ショック後、現在に至る世界経済状況を総合的にとらえている。それは、2つの対照的局面 -ケインズ的政策の復活期 (20089月  20105)と超緊縮財政路線の蔓延期 (20106月 ― 現在― に分けることができる。これらの期間に主要国はどのような政策がとられてきたのかを、より具体的にみることにする。対象とするのはアメリカ、EU、日本である (なお付随的に、新興国についても触れておく)。
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本書の始まりは、2008年秋のリーマン・ショックが直接的なきっかけになっている。2009年初めに『現代思想』から依頼を受けて書いた「資本主義 (市場社会はいずこへ」(5月号)はその最初の報告であった。同じ頃、昭和堂から「ケインズと現代世界」のようなテーマでの出版依頼が、また月刊誌『統計』(日本統計協会)から隔月連載での寄稿依頼があった。そこで、『統計』に掲載するときに昭和堂での出版を意識しながら執筆を進めていくことにした。本書は、基本的にそのような経過を経て執筆してきたものを、あらためて書籍の形式にするために調整を加えながら、また内容をアップデートしながら、作成したものである。
これらの執筆にさいしては、ブログを書いていることが大いに役立つことになった。日々世界で生じている出来事をインターネット上から取り出し、それを読んではアドリブ的に感想やコメントを書くという作業を日常的に繰り返すなかで、さまざまな考えをまとめることができたからである。そのブログは以下におかれている。
 現在の資本主義を探るというこのプロジェクトは、今後、かなりの期間にわたって続けていきたいと考えている。日常的に生じる世界経済の大きな動きをとらえつつ、それらを通じて、いったい資本主義はいずこへ向かおうとしているのか、それをどのように評価していけばよいのか、そしてそれを支える新たな社会哲学とはどのようなものであるべきなのか、こうした問題を考えて生きたいと願っている。
 本書は学生諸君やビジネスパーソンを対象に書かれている。そうした読者が本書から得るところがあれば筆者にとって、それに勝る喜びはない。まさに、愚かな筆者の言説のなかにも1つぐらいの「得」(「愚者の一得」)が見出されることを期待している。



プロローグ
I. 資本主義・社会哲学・ケインズ
第1章 資本主義はいずこへ
第2章 社会哲学はいずこへ
第3章 「ケインズの今日性」を問う
Ⅱ. アメリカ・EU・日本
第4章 苦しむアメリカ経済
5章 オバマ政権の経済政策をみる
6章 包括的健康保険改革
7章 金融規制改革
8章  ユーロ危機
9章  自縛の日本経済
Ⅲ. 資本主義・自由化・グローバリゼーション
10章  資本主義を考える
11章  金融の自由化と不安定性 
第12章  グローバリゼーションを問う
Ⅳ. ポスト・リーマン・ショック
第13章 世界経済のいま

エピローグ
参考文献


 


エピローグ
この3年ほどのあいだ、ずっと考察をめぐらしてきたものである。いままで私が研究してきた領域・方法とはまったく異なる分野である。対象はいまの資本主義であり、これをどう私が理解・評価するのかを問題にしている。自分が生きているこの現在の資本主義をどうとらえればいいのかだけを問題にしている。
 現代世界の大きな激動期を、社会哲学、経済理論・経済政策の領域から批判的に検討を加えつつ、今後、資本主義経済がいずこへ向かおうとしているのかを追究すること、これが本書の主たる目的である。
 副題の「愚者の一得」は数時間前に思いついた。賢くもない私が述べていることのなかに1つでも現在世界をみるうえで役立つ視点・示唆があれば幸いである。
 この領域の探求はその定義上、つねに現在進行形である。述べたいことはまだ多々あるが、ひとまず述べてきたことをまとめたかたちで公表できる段階にはなっているので、いまはこのようなかたちでまとめることとし、さらなる展開は次を待ちたいと思う。
 資本主義社会は複雑で、変化が激しく、理論・思想・現実政治が複雑に絡み合う世界である。それは人間の金銭欲、支配欲、競争が激しくぶつかり合う場である。芸術のような純粋な創造性を求める世界とは異なり、それは人間の醜さ、強欲さ、合理性と非合理性が混在する世界である。芸術家のような美しさの探求は望むべくもないが、社会科学に身をおくものとしてはこれ以上にスリリングで魅力的な研究領域はない。じつはこれは、私が経済学の勉強を始めた頃にばくぜんともっていた考えである。あれから多くの年数が経過し、いまこの領域に踏み込んでいるのである。そうしている自分を明確に意識してこれを書いている。
 専門化が進行しすぎるあまり、多くの経済学者はあまりにも狭い領域にこだわりすぎる傾向があり、そしてその傾向は年を追うにつれて高まっている。そこにはある長所もあるが、それに伴う欠陥も大きい。何よりも「資本主義社会とは何か」といった大きなテーマは専門的でないとして敬遠されがちである。「深い教養主義の重要性」をここで強調しておきたい。そして何よりも、こうした大きいテーマはそれ自体魅力的であるとともに、それを遂行していくには狭い経済理論ではあまり役には立たない。政治学や社会学、社会心理学などの分野に入り込む必要があるのである。
小林陽太郎氏のことに言及する
 自分が生を受けたこの世界をどうとらえ、どう評価し、そしてどういう方向が望ましいのか、これを考えることは私にとって大変魅力的な探究課題である。ほかのことはいい、この点だけが私を動かしているのだから。