平井俊顕編著、日本経済評論社、2009年、355ページ
市場社会論のケンブリッジ的展開
― 共有性と多様性
序 平井俊顕 … 3
第Ⅰ部 体系的構想と学的闘い
第1章 シジウィック ― 実践哲学としての倫理学・経済学・政治学 … 20
中井大介
第2章 マーシャル ― 「人間の成長」と経済発展 西岡幹雄 … 45
第3章 フォクスウェルとカニンガム - 抗する人達 門脇覚 … 68
第Ⅱ部 資本主義と国際システム
第4章 ピグー - 資本主義と民主主義 本郷亮 … 88
第5章 ホートリー ― 未刊の著『正しい政策』考 平井俊顕 … 110
第6章 ケインズ ― 帝国の防衛と国際システムの設計 平井俊顕… 133
第Ⅲ部 産業と2大階級
第7章 マグレガーとロバートソン - 産業統治論 下平裕之 … 154
第8章 レイトン ― 労働者論 近藤真司 … 177
第9章 ラヴィントン ― メゾ層の企業家 小峯敦 … 199
第Ⅳ部 影響と対抗
第10章 ムーアとその周辺 ― 哲学的影響 桑原光一郎 … 220
第11章 ドッブとスラッファ ― ケンブリッジ主流批判 塚本恭章… 243
第12章 ロビンズ・サークル ― ケンブリッジとの対抗 …264
木村雄一
第13章 制度派とケンブリッジの経済学者 ― 自由とコントロール
佐藤方宣 …289
終章 ケンブリッジの市場社会論 ― 展望的描写 平井俊顕 … 308
序
平井俊顕
いまのわれわれに,安政・文久時代の幕府や京都の政治家学者らが踏んだかの損失の多かった道を,重ねて踏まぬ用意をしようと提議するのはやはり不合理のことだろうか.もしもそれが不合理であるならば,人間は歴史を学ぶ要もなければ,科学を研究する価値もない.・・・わずかに数千万円の会社を起こす場合にでも,人はあらゆる材料を研究し,過去の同種の事業の踏んだ過失を繰り返すまいと努力するではないか.何がゆえに大なる社会の経営についてはこの用意を怠るか.人為をつくしてなおいかんともなしがたかった場合はやむを得ぬ.われらはまずむだなまでも,その人為のかぎりをつくしてみようではないか (石橋[1984], p.158. 1928年4月).
1. 市場社会とは何か
1.1 市場社会論
本書は,19世紀後半から20世紀前半にかけてケンブリッジで展開された「市場社会論」の総合的検討を通じて,その連続性(受容)・その断絶性(対立)― つまりはその多様性 ― を読者諸賢に提示することを主要な目的としている.そのことを通じ,巷間のみならず経済学界に普及している「経済思想」にまつわる偏見と誤謬を是正すること,および市場社会の今日的状況を捉えるうえでの確たる知的ベースを提供すること,これがわれわれの願いである. ケインズの言葉を借りれば,「人間精神の解放にとって必須の準備作業」を試みようというのである.
最初に,本書で市場社会という概念がいかなる意味で用いられているのかを説明することにしよう.
市場社会とは,あらゆるモノが商品として市場で取引されるようになっている社会のことである.何よりもそれは,労働(および土地)までもが商品化された社会 ― 労働市場(および不動産市場) を有する社会 ― として特徴づけられる.人間社会のこのような市場化は,長い年月をかけて進展してきた.この現象は,分業の進展と,それによって必然的になってきた貨幣を媒介とする取引の浸透を機軸に,次第に人間社会の周縁部から中枢部へと浸透していった.
今日の先進諸国は市場社会の現時点での完成形態である.それは概略,次のようになっている.わたし達は企業に職を得,そこで働くことで給料を得る.企業は,わたし達の労働サービス,それに種々の設備を活用して,商品を生産する.そしてわたし達は給料でそれらを購入する.こうしたことが,無数の人々,無数の企業によって日々行われている.無数の商品・サービスの取引が,互いに何の面識もないのに円滑に行われているのは,「市場」が存在するからである.売り手,買い手のあいだに面識がなくても,この市場という機構 ― 慣れすぎていて,だれもその魔力性に気づくことのない不思議な存在 ―を通じて,売買が円滑に進行していく.個人的靱帯は解体され,諸個人が自立した存在になった社会,そして「市場」を通じて結成されたネットワーク社会.これが本書でいう市場社会である.
以上に述べた市場社会という概念は,これまで慣習的に用いられてきた「資本主義」社会という概念と同じ対象を扱っているといってよい.「資本主義」社会という概念には,経済社会を動かす主役を「資本」に措定し,それが自己増殖運動を引き起こすという視点が色濃く現出している.これにたいして,市場社会という概念には,同じ社会を対象としながらも,「市場」,「市場化」に大きな関心が寄せられている.したがって,視点に差異はみられるが,同じ社会を対象にしていることには変わりはない.マルクス風にいえば「下部構造」により「上部構造」が支配されている社会であり,ポラニー風にいえば,「経済」が社会を規定している社会である.
本書でいう市場社会論は,上記の意味での市場社会について基本的な考察を行う分野である.すなわち,市場社会はどのように評価されるのか,そしてそのことはどのような理論・根拠に基づいてなされるのか,またその評価に基づいてどのように変革していく必要があるのか等々について考究する領域である.市場社会の本性を問い,それに価値判断をくだし,そしてどう行動すべきかを問うのである.
市場社会論は社会哲学の一分野といえる.社会哲学は市場社会を扱うとはかぎらない.人間の社会は多様だからである.だが本書で検討を加える主要な舞台は,経済活動が市場取引を機軸に展開される近代社会である.そしてこの舞台こそが,経済学がその生誕以来,圧倒的な関心を払ってきたものである. 本書で扱う「社会哲学」のイメージは,ケインズ『一般理論』の最終章「一般理論の導く社会哲学に関する結論的覚書」に近い.哲学的考察に走るのではなく,むしろ経済学者が経済理論を展開する前提として有するシュムペーター的意味における「ヴィジョン」に近接する概念である.
1.2「市場原理主義」の流行
戦後の西側世界を長きにわたって支配してきた社会哲学は,ケインズ=ベヴァリ通じ体制と称される.それは完全雇用を維持するように政策を遂行すること,および市民が安心した生活を営めるような社会保障制度を確立させていくことが政府の果たすべき重要な役割であることを闡明するものであった.
しかし1970年代になると,この社会哲学にたいしさまざまな方面から批判の声があがるようになった.その魁となったのはフリードマンを領袖とするマネタリストの活動であろう.それはケインズ経済学ならびにケインズ=ベヴァリッジ体制にたいする経済理論上ならびに社会哲学上の反革命ともいうべきものであった.マネタリズムは,一方で貨幣数量説のニュー・ヴァージョンと「自然失業率仮説」,他方で『選択の自由』に示されたようなネオ・リベラリズムを唱道することにより,ケインズ経済学ならびにケインズ=ベヴァリッジ体制に大きな打撃を加え,経済学や社会哲学に新しい道を敷設することに成功した.
そしてこの動きは,1980年代にイギリスでサッチャー内閣,アメリカでのレーガン政府が出現することで,政治的な力を得て勢いを増すことになった(いわゆる「サッチャリズム」,「レーガノミクス」).「ケインズ革命」の嵐のなかで埋没していたミーゼスやハイエクもこの流れのなかで復権をとげることになった.
マネタリズムの流れのなかから,ネオ・リベラリズムという点,政策的スタンスという点では類似した傾向をもつ,だが経済理論的には性質を異にする一群の経済学が登場した.ルーカス,キドランド=プレスコットに代表されるいわゆる「新しい古典派」である.彼らは,市場での価格均衡メカニズム,パレート最適,経済主体に超合理性を想定した(合理的期待形成仮説)うえで理論・実証分析を行うグループであり,自らの理論的優越性を唱えて,マネタリズムより明瞭に「反ケインズ」的主張を展開し,もって多くの若き経済学者を魅了した.そして市場システムへの信頼を謳うことで,ネオ・リベラリズムの動きに知的権威づけを与えることに貢献した.これらに歩調を合わせるかのように,ブキャナンに代表される公共選択学派などの出現もあり,ネオ・リベラリズムの陣営は多彩さを増していったのである.
1990年代になると,市場原理主義的運動を推奨してきた米英は,それまでとは打って変わって経済のパフォーマンスが改善した.そしてそのことは1980年代に進められた構造改革,規制緩和のおかげであるということが,声高に唱えられることになり,ネオ・リベラリズム的見解の妥当性を証明したものと受け止められるようになっていった.
それに,同時期,冷戦構造に終止符が打たれた.旧東側では社会主義体制の崩壊に伴い市場原理を大胆に導入し,社会の市場化が急速に進められた.アジアに目を転じると,中国の,市場原理の部分的導入を契機とした高度の経済発展が世界の耳目を引き付けてきた.これらもまた,社会主義にたいする資本主義システムの勝利と受け止められたのである.かくしてこの数十年のあいだ,市場原理に無類の信頼をおくネオ・リベラリズムは,時代の寵児たる勢いをみせてきたのである.
1.3 批判的論及
以上にみた近年の現象は,意識的・無意識的に「市場原理主義」イデオロギーを支援・強化してきたことは否定できない.そしてこの現象を皮相に捉えるならば,「市場原理主義」の一方的な勝利とみることになるであろう.
だがイデオロギー的強化の側面からではなく,経済理論的視点,社会哲学的視点等からみると,それらは補完しあっているというわけではない.それぞれの主張が成り立つ根拠がまったく異なっているからである.それゆえ,「市場原理主義」の勝利と表現にはあまりにも多くの問題を捨象した見解といわざるをえない.
第1に,「新しい古典派」は自らの理論がミクロの経済主体に依拠した厳密な数理的モデルであると称している.しかし,「代表的家計」というマクロ的主体にもとづき,しかも期待効用の最大化を合理的期待形成のもとで行うという点から構築された経済モデルに基づき,それを「カリブレーション」という手法で現実の経済とのフィットネスを測定するというやり方は,将来が不確実な状態のもとで行動せざるをえない現実経済の描写とはあまりにもかけ離れたものである.そしてこの点でケインズがかつて「似非数理経済学」と揶揄し,ミーゼスが「ヒューマン・アクション」を無視した「数理経済学者」と批判した言葉は,「新しい古典派」にも妥当するものであるといえよう.
第2に,「ネオ・リベラリズム」はその内部において理論的立場は非常に異なる.早い話が,市井の人はハイエクもミーゼスもロビンズもナイトも皆そこに属する重要な経済学者だと思っているかもしれない.しかし,これほど誤った考えはない.オーストリア学派の代表的論客ハイエクとミーゼスの自由主義思想は大いに性格をことにしている.前者は「自生的秩序論」であり,後者は「プラクシオロジー」であるからである.
第3に,われわれがこれまで歩んできた資本主義の道程を考えることが肝要である.18世紀から今日に至る世界は,イギリスが産業革命によって達成した市場社会システムを追跡する過程であるといえる.産業化,市場化を推進することで,生産力の飛躍的な増大とそれを受容する市場を創出していくこと,そしてそのことにより経済力を入手し,それを一方では軍事力として活用することに,また他方では人々の生活環境を改善することに,官僚も市民も努力を続けてきた国が輩出してきた.このことに成功した国が,世界のいわば「勝ち組」として,現在,存在しているわけである.
市場化は「悪魔の挽き臼」的エネルギーを解き放つものである.しかし,人々がそのなすがままに身を委ねた,というのは誇張された表現である.実際,イギリスにあっても当初の自然発生的な産業革命のもたらす社会的悪影響は,徐々にではあるが,さまざまのセイフティ・ネットの案出により,それを除去することで,いわばマイルドな資本主義の実現が試みられることになった.思想的にも手放しの自由放任が歓迎されたのは,19世紀の第3四半期のみであり,以降は集産主義,福祉国家的思想が優位を占めるに至ったのである.
このことは,市場化を成功裏に行うには,そして社会的不安を軽減するには,その爆発的エネルギーをある程度緩和し,コントロールすることが必須である,ということを意味する.
興味深いのは,成功した市場経済は,(後述の)「市場原理主義」に従うことによって生まれてきてはいない,という事実である.イギリスやアメリカをのぞけば,賢明な官僚と優れた企業者が共同歩調をとることで社会の産業化・市場化を成功させてきているのである.逆に,そうした要素を欠く社会(例えば崩壊後のロシア)は,「市場原理主義」という外部からのイデオロギーを受け入れることで,いたずらに社会的・経済的な混乱・低迷を招く結果となっている.
第4に,市場社会の本性をめぐる理解である.市場社会を特徴づけるのは,何よりもその動態性(ダイナミズム)にある.市場社会は成長を本質とするダイナミックな社会システムである.それは二重の意味で動態的だ.一方で,市場社会は,分業の進展と競争を通じて,そしてそれらが誘発する技術革新を通じて,生産の増大・成長をもたらす.他方で,社会の市場化は,既存の社会システム・制度(それは伝統社会であったり,既存の産業であったりする)を浸食・破壊していく.市場化の論理は凄まじい力で自己を貫徹させようとする特性(「解き放たれたプロメテウス」)を有している.市場社会は成長衝動を内包するシステムであり,その爆発力が既存システムを破壊するために不安定性を内在しているのである.このプロメテウスをいかに制御できるかは,各国がその市場社会化に成功するうえでの,実は依然として重要な今日的課題である(「市場原理主義」にはこうした視点が欠落している).
市場社会は,完全な自由放任と完全な社会主義を両端にもつスペクトラムの中間にしか位置しえない.難しさは,中間のいずこが最適であるかの見極めにある.この問題はややもすれば忘れられがちであるが,看過できないものである.
1.4 現代の世界経済危機
だが,近年,世界経済をいくども襲ってきた金融危機,そして今回のサブ・プライムに端を発した世界的経済危機は,こうしたネオ・リベラリズム的運動のもつ危うさと問題性を強烈に表面に露呈させるものとなっている.「市場原理主義」のイデオロギーは現在,アメリカのサブ・プライム問題に端を発した世界的な経済危機をまえに,大きな疑問を投げかけられ,後退を余儀なくされている.資本の短期移動が極端に自由化され,そして「証券の商品化」が多層的に「金融工学」の勝利として進展するなか,みごとなまでに世界的大銀行が多数,この先頭に走って躓いてしまった.各国政府は金融システムの重要性をかんがみ,それに未曾有の額の資本援助を行うことに同意をみせている.
これらは,市場原理主義のもつ問題点を大きくクローズアップさせている.市場に任せればいい,そして企業は自己責任によって経営されている,といった原理が大きく現実によって破壊されている.サブ・プライム問題は,証券の証券化をもとに投機的行為の蔓延から生じたバブルの崩壊により,世界的な証券会社,銀行が破産の危機に陥り,その尻拭いを政府に泣きつく,そして政府は市場経済システムの危機を乗り越えるというために巨額の資本注入を行う,という構図をさらけ出している.他方,サブ・プライム・ローンを組んで破産した大衆は家を取り上げられ,ローンの支払いは残されたままで,それを自己責任で処理させられている.こうして貧富の格差という,これまで述べられてきた市場原理主義の「成果」が,政府による金融資本への補助というかたちでますます拡大されているのである.
たちどまって考えてみると,市場社会(=資本主義社会)とは一体何なのであろうか.市場社会はいかなる理由で評価されるべきものなのであろうか.あるいは,いかなる理由で問題があると考えられているのであろうか.また現在の先進国経済は,どのような特徴をもった市場社会なのであろうか.そしてそれは歴史的にいかなる変貌を遂げてきたものであり,またその変貌はいかに評価されるべきなのであろうか.こうした根底的論点を探究してみることは,今日世界にみられる「市場社会化現象」とその危うさを客観的に評価するうえで欠かすことのできない検討課題であると思われる.
2. 本書の意図・概要・特徴
2.1 意図
このような基本認識に基づいて,本書では,19世紀後半から20世紀前半にケンブリッジで展開された市場社会論を掘り下げていくことにする. ケンブリッジの思想家は次の問題をどのように考えていたのか.「資本主義社会 ( = 市場社会) とは何なのか」― これが本書を通じて,わたし達が追究しようとするテーマである.この追究をするなかで,「ケンブリッジの市場社会論 (= 社会哲学) とは一体何なのか.中核になる概念は何なのか.そしてどの程度の統一性があるのか (ないのか)」をメンバー相互間の検討を通じ抽出していくこと,そしてそれは現在の市場社会論にとっていかなる意義を有するものなのか,これらを明らかにすること,が本書の究極的な目的である.
そのさい,わたし達は次の諸点にとくに注意を払うことにした.
1. 彼らは市場社会をどのように評価しているのか(肯定的になのか,批判的になのか,あるいはその中間なのか),そしてそれをどのような理論・根拠により展開しているのか,またそれをどのように改善していくべきと考えたのか.
2. 市場,企業,経済主体,政府等について,どのような考えを提示しているのか.彼らの市場社会論は現在の社会を考察するうえで,いかなる意義・含意を有しているのか.
3. 彼らの市場社会論をめぐる近年の研究動向はどのような状況にあるのか.
本書は,以上のような問題意識のもとで2005年4月に立ち上げられたプロジェクトの成果である (これは,編者が主宰してきている「市場社会をめぐる研究会」[SMK.2001年3月発足] の第2回作品でもある1).この間,数度にわたり研究会を開き,各自の報告をめぐり活発な討議を重ねてきた.とはいえ,わたし達はけっして意見・見解の無理な収斂を目指しているわけではない.また各章は,相互にコメントを行うことで大いなる改善・改良をみているが,その成果についての判断は読者諸賢に委ねられる.さらに,全体としての統一性については編者の,また各章の内容については執筆者の責に帰することは,論をまたない.
2.2 概要
ケンブリッジに拠点をおいた経済学者は,どのような市場社会観を提唱・展開したのであろうか.この点を19世紀第3四半期から20世紀中葉にかけて探究するというのが,本書が目指すものである.
ここでは「ケンブリッジ学派」ではなく,「ケンブリッジ」というタイトルが意識的に採択されている.「ケンブリッジ学派」は,マーシャルにはじまる経済学の流れを指す用語として伝統的に用いられてきた.だがここでは「ケンブリッジ」に根拠地をおいた(もしくはそこで教育を受けた)経済思想家を検討の対象としており,それよりもはるかに広い概念である.しかも経済理論ではなく市場社会論(社会哲学)を対象にするものである.
以下,各章の概要を紹介していくことにしよう.
第I部「体系的構想と学的闘い」では,最初に, 19世紀末から20世紀初頭のケンブリッジを代表する2人 ― シジウィックとマーシャル ― が検討される.続いて,マーシャルと,社会哲学的にも,経済理論的にも対峙する立場をとった人物として2人の経済学者 - フォックスウェルとカニンガム ― が取り上げられる.
第1章「シジウィック ― 実践哲学としての倫理学・経済学・政治学」では,倫理学・経済学・政治学を軸にした体系を構築しようとしたシジウィックに注目する (シジウィックは倫理学者としてよく知られているが,彼の経済学や政治学は今日忘れられている).シジウィックは個人の倫理に関して,利他的な人間性の発展を重視するミルを退けるかたちで,利己心と利他心の統合は不可能であると結論付けた.そうした利己心と利他心のあいだで葛藤を抱え得る現実的な人間像をベースにしながら,シジウィックは「最大多数の最大幸福」を実現する実践的な政府の役割を,経済学と政治学において追究している.
第2章「マーシャル ― 人間の成長と経済発展」では,市場社会の光は人間の成長と経済の発展であり,陰は工業化に伴う貧困と文化的危機と捉えるマーシャルが対象とされる.このような「人間の成長」と「貧困問題」を,どのような科学や体系によって解明すればよいのだろうか.その帰結としてマーシャルが経済学にたどり着くための遍歴は複線的であった.マーシャルは,自らが生を通じて,どのような経済社会思想をいだくことになったのであろうか.本章ではこうした点が追究される.
第3章「フォックスウェルとカニンガム ― 抗する人達」では,マーシャルの最初期の学生であった2人の経済学者の社会哲学を明らかにするとともに,彼らの存在がケンブリッジの経済学的環境に与えた影響について論じる.師マーシャルとは異なり,彼らは演繹的経済学と自由主義に対し批判的であり,特に当時隆盛をみていた歴史派経済学をケンブリッジにあって強力に推進した.その背景には,彼らが有していた帝国に対する認識が大いに関係している.
第II部「資本主義と国際システム」では,戦間期のケンブリッジを代表する3名の経済学者,ピグー,ホートリー,ケインズが取り上げられる(本来であれば,ロバートソンは,ここに入れるべきであるが,執筆構成の関係上,第3部に回すことにする).
第4章「ピグー ― 資本主義と民主主義」では,ピグーが論じられる.近年の経済政策をめぐる議論では,政策を立案・運営する「政治」世界に対する配慮が欠かせないが,ピグーは早い時期から当時のイギリスでの民主主義の発展に注目しており,その認識は彼が実際に唱えた諸政策をしばしば決定的に左右することになった.というのも,政治はますます大衆に迎合せざるをえず,理性的な政策立案・運営はますます困難になったからである.彼が,いわゆる裁量的政策(中央集権的計画経済,管理通貨制度など)に対して,理論上はその有効性を認めながらも,実践上はしばしば深い懐疑を示した最大の理由は,ここにある.
第5章「ホートリー ― 未刊の著『正しい政策』考」では,ホートリーの未刊の著である『正しい政策』に基づき彼の社会哲学が検討される.そこでは根底をなす考えとして,ムーアの「善」がおかれている.「善」に基づく「正しい政策」の遂行にとって重要なのは,「正しさ」を直覚できる人間の力である.そして「真の目的」の実現に努める支配者と「中間的な目的」に沿って活動する公衆を礎定するとともに,「中間的な目的」が行き過ぎで「偽りの目的」に陥らないように支配者が絶えず配慮する.こうした視点から,ホートリーはさまざまな社会・経済現象を批判的に分析したのである.
第6章 「ケインズ ― 帝国の防衛と国際システムの設計」では,ケインズの多方面におよぶ活動のうち,国際政治 (とりわけ,1940年代の「救済問題」)における彼のスタンスに焦点を合わせ,ケインズがどの程度,ナショナリスト,国際主義者,そして帝国主義であったのかが検討される.ケインズは,可能ならば,国際主義の精神で国際的な計画を構想することに努めた.だが不可能な場合,卓越した手法を用いて,アメリカの強大な力から大英帝国を防衛することに尽力した.つまり,彼は国際秩序のデザイナーであると同時に,大英帝国の防衛者であったと帰結される.
第III部「産業と2大階級」では,ロバートソン,ならびに今日ではほとんど知られてはいないものの,当時のケンブリッジの社会哲学を捉えるうえで欠かすことのできない人物3名 - マグレガー,レイトン,ラヴィントン - が検討の対象にされている.
第7章「マグレガーとロバートソン ― 産業統治論」では,20世紀の大企業による大規模生産体制という新しい産業構造に対し,マーシャルから継承した産業統治に関する学説をどのように適応すべきかについて考察したマクレガーとロバートソンが扱われる.ともに彼らは,大規模生産体制がもたらす経済的損失 ― 労働者の経営からの排除や周期的過剰生産 ― を重視し,労使・企業間の連合や混合経済体制を通じた民主的統治による競争の制御に肯定的な見解を示した.彼らの分析は労使の協調や企業間の連合が経済的合理性をもつことを明らかにしたが,これは上記の産業構造の変化にたいし理論を適応させるための努力であった.
第8章「レイトン ― 労働者論」ではレイトンが検討される.マーシャルは,ケンブリッジ学派の創始者として経済理論の基礎を構築した人物として知られるが,彼の下で教育を受けた者達は,マーシャル理論の再構築や発展にではなく,その未完部分や当時の時代的課題を解き明かすことに精力を注いだ.レイトンは,マーシャルが創設した経済学トライポスから生まれた経済学者であり,マーシャル的伝統と事実の蒐集,整理,分析,解釈という帰納的な研究法をマーシャルから学び取り,統計学を用いて「応用経済学」の分野に業績を残した経済学者であったことが明らかにされる.
第9章「ラヴィントン ― メゾ層の企業家」ではラヴィントンが論じられる.ラヴィントンの資本主義観は, マーシャルの時代認識(19世紀末)とケインズの時代認識(第一次世界大戦後)をつなぐ結節点・変節点として重要な位置を占める. 本章では,1910-20年代に ミクロ経済学(資産選択)とマクロ経済学(景気循環)の構築に貢献したラヴィントンが試みたメゾ・レベル(中間組織)の規範的認識に光を当てる. この検討過程を通じ, その理論的貢献が結束性の高いかたちで提示されるとともに,ケンブリッジ学派の連続性と断絶性が, ラヴィントンという迂回路を用いて把捉される.
第IV部「影響と対抗」では,ケインズ達の世代に多大なる影響をおよぼした倫理学者ムーア,およびケンブリッジに属するも,マーシャル=ケインズの枢軸に批判的立場をとった2人の経済学者,ドッブとスラッファが「内」として取り上げられる.またケンブリッジ全体を,同時代に「外」の経済学者はいかにみていたのかが,ロビンズをリーダーとするLSE (ロンドン大学) のグループ,ならびにアメリカの制度学派を取り上げて検討される.
第10章「ムーアとその周辺 ― 哲学的影響」では,ムーアの倫理学ならびにその影響を受けたケインズ達の世代が扱われる.ムーアの『倫理学原理』はケンブリッジの若者達を魅了した.それは,同書が伝統的哲学を超克したと思われたからであった.ムーアは,それまでの倫理学はさまざまな混乱を抱えていることを批判的に論じるなかから,倫理学を日常生活における真理性を問うものとして提示した.そしてその回答として「善の定義不可能性」というテーゼを提出するとともに,個人は善の内容を「人間的情愛と美的享受」として直観できると主張した.このムーアの「理想」が,社会を考察するうえで,後に「ブルームズベリー・グループ」を形成することになるケンブリッジの若者達 ― 例えばストレイチーやクライブ・ベルにおいてみられるように ― の1つの立場になっていくのである.
第11章「ドッブとスラッファ ― ケンブリッジ主流批判」では,ドッブを中心に,そしてドッブに影響を与えたスラッファが副次的に論じられる.ケンブリッジのマルクス経済学者ドッブは,近代経済学正統派(新古典派)に対する批判的考察,ならびに盟友スラッファの影響を通じて自らの学説を深化させた.生産・分配論的,そして制度論的視角を重視するドッブの経済思想は,資本主義の本質と作動様式を解明すべく,客観的価値論(剰余理論)としての労働価値説とスラッファ体系に象徴される外生的分配論の特質を明確化し,新古典派が描く自己完結的な市場経済像に代わって,生産の社会的・階級的諸関係を基盤とした実在的な資本主義社会像を強調するものであった.
第12章「ロビンズ・サークル ― ケンブリッジとの対抗」では,ケンブリッジの社会哲学とLSEのそれを比較考量する意義に着眼して,ロビンズの視点から1930年代のLSEにおける「ロビンズ・サークル」の理論・政策を明確にすることが目指されている.「ロビンズ・サークル」の経済学は,一見するとロビンズが論じたように価値判断から中立的な経済科学である.しかしロビンズの理論を仔細に検討すれば選択の自由を擁護した経済学である.ロビンズの経済理論と経済政策はともにレッセ・フェールと表裏一体である.LSEとケンブリッジは両者の知的交流を通じて緊密であったが,両者の学問的溝は大きかった.
第13章「制度派とケンブリッジの経済学者 ― 自由とコントロール」では,マーシャル,ピグー,ケインズらとアメリカ制度派の経済学者達との関係をめぐる近年の議論が展望される.新古典派の代名詞ともいえるケンブリッジ学派は制度派とは一般に無関係ないし相反する立場とされがちだが,近年,双方の主要人物の関係や共通性を指摘する声が挙がっている.そうした作業を通覧するなかでみえてくるのは,20世紀初頭の経済社会の変容を前にした「自由とコントロール」の再調整という問題関心の共有である.このことは大西洋をはさんで展開された自由主義の変容をめぐる社会哲学的文脈をあらためて考え直す必要を意味するものといえよう.
終章「ケンブリッジの市場社会論 ― 展望的描写」では,上記に展開された多様なケンブリッジの市場社会論を一望のもとにおくことで,読者の便に資することを目的としている.したがって広い視座から述べるとともに,論述上,またテーマの選択上,触れたくとも触れることのできなかった側面,人物などを述べることで,ケンブリッジの市場社会論の全体像をつかむうえで必要な穴埋めが行われる.なお,このさい,市場社会論を経済学との関係に配慮を払いながら述べることで,上記の目的は達成されやすくなると思われる (当初,執筆者間でシンポジウムのようなものを行い,その成果を掲載することも考えたが,読者にとってかえって分かりづらいものになるおそれもあるとの判断に至ったため,編者1人の責で担当することになった.シンポジウムはむしろ刊行後、公開の場で行うことを考えている).
2.3 特徴
ケンブリッジの社会哲学を研究することの今日的意義はどこにあるのであろうか.これを述べて,序を終えることにしよう.
第1に,世界の経済学の一大中心であったケンブリッジの社会哲学が,これまでまともに研究されたことがない,という事実がある.それを,一次資料も踏まえながら,総合的に明らかにするということを本書では試みた.このこと自体,僭越ながら経済学史的に,また思想史的に価値のあることだと思う2.
第2に,ケンブリッジの社会哲学は,それが学際的に遂行されたがゆえに,学際的な研究を本来的に必要としている.しかるに,今日,ブルームズベリー・グループの研究は英文学者に,また哲学の研究は哲学者に任され,そしてケンブリッジの社会哲学の研究は経済思想家に任される,という具合で,妙な棲み分けができてしまっている.この垣根を払うことが必要である.あるいは,学際的なシンポジウムのようなものが不可欠である.本書での研究はその1つのきっかけになるものといえる.
第3に,当時のケンブリッジでは,経済学,哲学,倫理学,美術評論(そしてブルームズベリーでは)文学,絵画論などをめぐって,非常にハイレベルの交流が後半にみられた.こうした知性の広がりと共有は,今日のあまりにも専門化の進行によって喪失してしまっており,専門家は蛸壺的にそれぞれの狭い領域での棲息することに甘んじている.深みを有する教養主義が,今日見直されるべきではなかろうか.
経済思想史には,対象をその時代的コンテクストに即して分析するという課題と,現在の経済学の状況を多様な歴史的・空間的視座から分析・批判するという課題がある.本書では前者に重点がおかれているが,これは後者の課題にとっての「必須の準備作業」であると考えている.
細分化・技術化の傾向を強める今日の経済学には重要な欠陥が存在する.医学の発達が優れた専門家を育てる反面,基本的な診断ができない医者を輩出するのと似通った事態が経済学にもみられる.1つのパラダイムに属して経済学をみるという現在の傾向は,その内部での議論を深化・進化させる半面,そのパラダイムを意識的・無意識的に絶対視することから生じる狭隘性に研究者を追いやる.多様なパラダイムを学ぶことでみえてくる経済学の世界を提示することの重要性は,知識の分業化が進む今日であればこそ,大きいのではなかろうか. わたし達は本書を,経済学史もしくは経済思想史の重要性を経済理論家ならびに一般大衆に示すものにすることを目指す.経済学史家は経済理論家にたいして,あまりにもパッシブに対応するようになってしまっている.経済学史家はその本来もつ特性たる「飛翔できる鷲」としての比翼を回復すべきなのである.
凡例: 本書の表記法について,ここで記しておくことにする.
(1) 文献表記で,例えばKeynes, J.M. [1972/1931]とある場合,前者は執筆者が使用している版の刊行年,後者は初版の刊行年を指している.
(2) 文献の表記を簡略化するため,略記号がしばしば用いられている.この場合,分かりやすい箇所でその内容説明がなされている.また「参考文献」にも当該文献の末尾に,例えば「(ELと略記)」などと記されている.
(3) 引用文は訳書がある場合,それを用いるようにしているが,自ら訳出しているケースや,部分的に本文の論調,語調に合わせて変更を加えているケースがある.訳書がない場合は執筆者の手になる訳出である.
(4) 欧米人の表記はカタカナを用いるが,文献を示す場合(例えばKeynes [1936])は別である(なお「人名索引」では原綴を併記する).
謝意
本書の刊行は多くの方々の協力と理解のうえに成り立っている.とりわけ,わたし達の出版企画をご快諾いただいた日本経済評論社,ならびに多数の執筆者の手になる本書の編集・校正作業を円滑に進めていただいた同社の谷口京延氏に謝意を表する次第である.
注
1) 平井編 [2007] が第1回作品である.
2) ケンブリッジの経済学者のあいだの膨大な書簡をもとに執筆された
Marcuzzo and Rosselli eds. [2005] は重要な貢献である.
参考文献
Keynes, J.M. [1972/1931], Essays in Persuasion, Macmillan (宮崎義一訳[1981],『説得論集』東洋経済新報社).
Marcuzzo, C. and Rosselli, A. eds.[2005], Economists in Cambridge, Routledge.
平井俊顕編[2007],『市場社会とは何か - ヴィジョンとデザイン』SUP上智大学出版.
石橋湛山[1984], 『石橋湛山評論集』岩波書店.