バブル崩壊後の日本経済考
―「失われた10年?」-
バブルが崩壊し経済状況が急激に悪化した1990年代初頭以降、今日に至るまで日本経済はどのような道をたどってきたのであろうか。この過程のなかでどのような政策が実施されたのであろうか。そしてそれらを私たちはどのように評価すればいいのだろうか。「失われた10年」という言葉がこの間の日本経済を表現するさい、決まり文句のように使われてきたが、はたしてこれは適切なのであろうか。本稿ではこれらの問題を論じる。最初に、経緯と政策をみることにし、そのうえで上記の問いに向かうことにしたい。
1. 20年の経緯
この時期を5つに分けてみることには一定の意義がある。すなわち、(1) 1993 - 1996年 (景気対策)、(2) 1996-1998年 (構造改革)、(3) 1998 – 2001年 (景気対策)、(4) 2001-2008年 (構造改革)、(5) 2008年 (リーマン・ショック) 以降、である。景気対策重視と構造改革重視の内閣が交代的に登場しているのである。
1.1. 景気対策と景気回復 (1993 – 1996年)
急激な地価、株価の下落が続くなか、経済の回復を目指すべく、諸内閣は次に示すような積極的な景気対策を打ち出していった。それは財政政策による有効需要の増大を主たる柱にすえたものである。
(1) 1992年8月 - 宮沢内閣 (1991年11月 - 1993年8月) による10.7兆円の「総合経済対策」
(2) 1993年4月-宮沢内閣による13.2兆円の「総合的な経済対策の推進について」
(3)1993年9月 - 細川内閣 (1993年8月 - 1994年4月) による6兆円の「緊急経済対策」
(4)1994年2月 - 細川内閣による15.25兆円の「総合経済対策」
(5)1995年9月 - 村山内閣 (1994年6月-1995年8月) による14.22兆円の経済対策、ならびに公定歩合の0.5%への引き下げ
その結果、個人消費や設備投資も増大し、1995年度は3.1%、 1996年度は4.7%の経済成長率を達成することができ、不良債権問題への懸念も薄らいだ。つまり、財政政策には明確な効果がみられたのである。
1.2. 財政構造改革と金融危機(1996 - 1998年)
この時期は財政構造改革ならびに金融自由化が断行されるも、そのことが経済不況と金融危機をもたらすという皮肉な結末を迎えた時期である。
財政構造改革と金融危機 - 経済的に良好な状態が訪れたのを見計らって、橋本内閣 (1996年1月-1998年7月) は財政の構造改革に着手することを主たる政策目標として掲げた。消費税の2%引き上げ、特別減税2兆円の廃止、医療保険料2兆円増の計9兆円の国民負担増加策であった。
ところが、これらの政策により上昇をみせ始めていた経済はふたたび急降下していくことになった。1997年になると株価は急落し、金融機関の不良債権問題が表面化した。さらに、G10で自己資本比率を8%以上にすることが決定されたため、銀行は広範なクレジット・クランチ、「貸し剥がし」に走ることになった。こうして経済は再び、かつ一層の悪化をみることになった。
1997年11月には「北海道拓殖銀行」と「山一證券」、1998年10月には「日本長期信用銀行」、同年12月には「日本債券信用銀行」等の倒産が相次ぎ、日本経済は「金融危機」に見舞われることになったのである。資産価格の急落は続き、企業の倒産、個人の破産は激増し、翻ってそのことは金融機関のバランス・シートを急激に悪化させていくことになった。1995年8月に邦銀全体ですでに40兆円の不良債権を抱えていたが、1997年12月には、その額は79兆円に達したのである。
経済の大幅な悪化に直面した橋本内閣は、財政構造改革を凍結し、1998年4月、16.7兆円の「総合経済対策」を打ち出したが、その成果は芳しいものではなかった。これはこの財政政策よりも、それ以前に遂行された財政構造改革というデフレ政策に大きな責を負うべき問題である。
資産価格の継続的な急落に直面し、ついに大手銀行は政府に公的資金の注入を要請する事態が発生した。マスコミ、世論はこれをいわゆる「護送船団方式」として糾弾し、そのため当初の計画よりはかなり小規模な公的資金の注入が行われることになった。代表的事例として、長期信用銀行、日本債券信用銀行等の大手21行への18兆円 (1998年2月)、大手銀行15行への7兆4592億円(1999年3月がある。
この結果、1997 年度は0.2%、1998年度の経済成長率は –o.6%となった。
結局、1990年代を通じ、破綻した金融機関に18兆6千億円、金融機関からの資産の買取に9兆6千億円、破綻前金融機関への資本注入に12兆4千億円、総計40兆6千億円もの巨費が公的資金として使われることになった。
金融自由化路線 ― 1990年代後半に生じた金融システムの破綻は、それまでの「護送船団方式」からの大転換を図る大きな誘引になった。いわゆる「日本版ビッグバン」と呼ばれる金融自由化路線への転換であり、主として橋本内閣によって行われた。これは次の2つの経路をたどることになった。1つの経路は、証券、金融、保険の自由化である。
1996年11月、橋本内閣は「フリー、フェアー、グローバルの3原則」を中核にすえた「金融システム改革構想」を打ち出した。それは1998年6月に「金融システム改革法」として実現をみることになったが、 (i)株式売買委託手数料の自由化、(ii) 銀行・証券・保険業務への新規参入促進、(iii) 証券投資信託の整備、(iv) 有価証券店頭デリバティブの全面解禁、(iv) 取引所集中義務の撤廃、(v) ディスクロージャーの充実、(vi) 取引ルールの整備、などを謳うものであった。こうした動きは、アメリカで進行していた「グラス=スティーガル法」の換骨奪胎化とその過程の到達形態である「グラム =リーチ = ブライリー法」(1999年) に至る運動と連動している。1アメリカからのそうした動きを促進する動きがみられたのである。2
もう1つの経路は、関係官庁の再編成である。1998年6月、橋本内閣は「財金分離政策」に基づき、大蔵省の検査・監督部門を分離独立させ、「金融監督庁」を創設した。さらに、2000年7月、金融監督庁と大蔵省の金融企画局が統合されて、「金融庁」が誕生することになった。これにより、これまで絶大な権力を掌握していた大蔵省が弱体化した点は、日本の経済政策のパフォーマンスを考えるうえで重要である。
1.3. 景気対策と景気回復 (1998 – 2001年)
日本経済が悪化を続け、かつ金融システムの崩壊が生じていた1998年7月に成立した小渕内閣 (1998-2000年) は、景気回復を最優先課題に掲げた。財政政策としては、23.9兆円の「緊急経済対策」(1998年11月)、18兆円の「経済新生対策」(1999年11月) が、また金融政策としては、ゼロ金利政策(1999年2月)が打ち出された。これにより経済は回復への道を歩み始めた。
日銀は小渕内閣の反対を押し切ってゼロ金利政策を解除(2000年8月)したが、アメリカで展開していた「ドット・コム・バブル」の崩壊により、輸出の鈍化から2000年11月をピークに景気は急速に悪化したため、2001年3月、再度ゼロ金利政策(ならびに量的緩和政策)をとることになった(2006年7月まで継続)。
財政政策に比べ、金融政策が景気の浮揚策としてどれほど機能してきたのかという点だが、これには疑問符のつくことが知られている。
例えば、1997年度から2000年度では対前年度比でマネタリー・ベース (金融機関の日銀への当座預金残高) は平均7.3%伸びているのにたいし、マネー・サプライ(個人や民間企業の預金残高)は同3.15%しか伸びていない。これが2001年度ではマネタリー・ベースが14.7%にたいし、マネー・サプライは3.1%、同じく2002年度ではマネタリー・ベースが21.8%にたいし、マネー・サプライは3.2%でしかない。つまり、金融機関は日銀から得たマネーを実体経済に貸し付けておらず、クレジット・クランチ状況が現出していたのである。
1.4.構造改革と「イザナミ景気」(2002-2007年)
小泉内閣 (2001-2006年)の時期を特徴づけるのは、「構造改革」と「イザナミ景気」(2002年2月-2007年10月)である。
1.4.1. 構造改革
小泉内閣は、橋本内閣の路線を継承しており、景気刺激策に消極的・否定的であり、主要な関心を制度的構造改革に向ける政権であった。その目玉とされたのが「郵政民営化」であり、2005年秋の総選挙はこれだけを争点として戦われることになった。そのほか、道路公団民営化、構造改革特区、三位一体論、省庁の改編などもマスコミで大いに取り上げられた構造改革案である。
しかし、これらが実質的にどれほどの効果があったのかとなると、大きな疑問符がつく。構造改革は完全に骨抜きにされており、民営化は形式上の変更にすぎなかったことが多いからである。
1.4.2.「イザナミ景気」(2002年2月-2007年10月)
デフレ政策のオン・パレード - 既述のように、小泉内閣は景気刺激策に消極的・否定的であった。実際、同内閣が行ったのはデフレ政策である。消費税率の引き上げ、所得税控除の廃止、医療保険値上げ(三割負担)、年金支給年齢の引き上げなどは、その代表である。これらを行う根拠は、各会計の均衡化というミクロ的発想である。財政赤字を解消するために消費税の引き上げ、所得税控除の廃止が唱えられ、医療保険の赤字に対処するために保険料の引き上げが、そして国民年金の赤字に対処するために年金支給年齢の引き上げが唱えられたのである。
このうち、医療保険および国民年金は、わが国の高齢化と密接に関連する問題であり、方針そのものに問題はないが、タイミングは大いに問題であった。人々の経済的状況が一向によくならないなかとられたこの方策は、結局、人々の将来への不安を駆り立て、消費の低迷をもたらしたからである。
イザナミ景気 - だがこう述べただけでは小泉内閣時代の日本経済を客観的にとらえたことにはならない。この間、「イザナミ景気」(2002年2月-2007年10月)と呼ばれることになる好況が続いたからである。
「イザナミ景気」がもたらされたのは、2001年3月-2006年7月に実施されたゼロ金利政策によるところが大きい。これは「円キャリー・トレード」を大規模に引き起こすことになった。アメリカ経済は、住宅市場を中心にして、9.11ショックからの立ち直りをみせ始めていたが、そのとき、アメリカの金融家が目をつけたのが超低金利の円である。円を借り、それをドルに換えてアメリカで、不動産、金融資産を購入する行為である。これは円安を引き起こすから、日本企業は輸出の急増で大いに潤うことにつながった。事実、経済成長への輸出のこの時期の寄与度は60%に達するほどであり、輸出の好調に支えられて、設備投資も大幅な増大がみられたのである。
とはいえ、この期間、GDPの年率成長率は2%と低いものであった。これは労働環境が悪化し、企業によるリストラ、正規雇用から非正規雇用へのシフトが常態化し、所得格差が拡大したこと、賃金の上昇もみられなかったことにより、消費の伸びがみられなかったことが大きく影響している。人々は将来への不安から、貯蓄をする(消費をしない)という生活パターンを選好したため、デフレ状況が慢性化したのである。「イザナミ景気」は輸出に大きく依存するものであり、内需の不振状況は継続した。恩恵を蒙れない大多数の人々からみれば、「イザナミ」は「かげろう」であった。
1.5.リーマン・ショック以降 (2008年以降)4
2008年9月に生じた「リーマン・ショック」はアメリカ経済の崩壊を引き起こし、その余波は全世界に及ぶことになった。
日本の場合、既述のように金融システム危機は1990年代後半に現出していた。そこから苦闘の末、「イザナミ景気」のときに金融システムを悩ませ続けていた不良債権問題は解決され、金融機関は空前の利益を上げるまでになっていた。しかも、米欧と異なり、証券化商品による金融バブルに日本の金融機関は関与していなかった。したがって、リーマン・ショックが日本の金融機関を襲ったというわけではない。
すべてはアメリカの実体経済の悪化により、輸出が激減したことで日本経済の歯車が狂うことになった。自動車、電機産業をはじめ、輸出を牽引してきた産業が軒並み巨額の赤字に陥った結果、生き残りをかけての大量のリストラが断行され、そのため投資、消費も極度の落ち込みをみせ、急激な不況スパイラルが旋回することになったのである。株価も輸出関連企業株に始まり、全面的な暴落が生じた。そこに投機的な円買いが発生したのだが、政府はそれに介入しなかったため、記録的な円高を招くことになったのである。
こうして経済は未曾有の不況に陥ることになったが、政府は巨額の財政赤字にとらわれるあまり、積極的な景気対策を事実上放棄してしまっている。
2009年秋に政権をとった民主党政府は、子供手当て、農家所得個別補償、高校授業料無償化を掲げており、従来の景気対策とも、また従来の構造改革とも無縁のものであった。
また外国為替市場へも、国際的な反発を恐れて介入されることがない。唯一行われている景気対策は、日銀によるゼロ金利政策 (2010年10月) と量的緩和政策である。だがこれらによって金融機関にマネーが流れても、金融機関によるクレジット・クランチ、貸し剥がしと、企業サイドからの貨幣需要が停滞する現状下で、どれほどの効果が発揮できるのかは疑問である。
消費の不振はかなり以前からのものであったが、今回、失業が急増したことにより、人々の生活不安が高まりをみせ、消費意欲は一層そがれることになった。
他方、企業は急激に進行した円高のなか、海外移転を推し進め、そのため「産業の空洞化現象」が顕在化しつつあった。したがって投資も不振であり、総需要の不振が顕著であった。日本経済はデフレ状況が継続するなか、不況脱出への解決策が見出せぬまま、2011年3月11日を迎えたのである。
2.20年を振り返る
2.1. 反映されない各種GDP3
上記のような日本経済のパフォーマンスをGDPでみることにしよう。重要な指標は実質GDPと購買力平価ベースでのGDPである。
実質GDPは(1980年代のより高い率での上昇カーブとは異なり)、1992年から2007年に至るまで、一貫して緩やかな上昇傾向を示しており、「失われた10年」というイメージとはかなり様相を異にしている。
名目GDPは1992年から1998年にかけて緩やかに上昇し、その後、2007年に至るまでほとんど変化していない。
実質GDPと名目GDPのこの乖離は、この30年間釣鐘型の形状をしているGDPデフレーターによって説明できる。1992年から1998年までは安定的に推移しているが、それ以前は一貫してインフレ基調、それ以降は一貫してデフレ基調にある。
購買力平価ベースでのGDPとなると、日本経済は一貫してこの30年間上昇を続けてきている。これは為替レートの変動や物価の変動を除去する手法であるから最も信頼性のある指標である。
したがって日本経済はこの30年間、GDP指標でみるかぎり、「失われた10年(あるいは20年)」で表現される状況にはなかったということになる。
2.2. 経済政策の失敗とは何か
では、日本経済の何が問題だったのだろうか。一言でいえば、米英が飛躍し、BRICSが存在感を高めるなか、世界経済における日本経済の相対的地位の低下を防ぐことができなかった点である。経済政策が失敗したというのは、その意味においてである。
「プラザ合意」(1985年)に始まる対米協調路線が躓きの石であったのは確かだとしても、責任は、自国の経済状況に合わせて政策を調整することに失敗したわが国政府にある。「プラザ合意」による協調介入により、円高は急激に進んだ。そのため、「円高不況」が懸念され、政府は低金利政策を中心とした金融緩和策 (公定歩合の2.5%への引き下げ [1987年2月 - 1989年5月]と公共投資を中心とした財政政策 (「緊急経済対策」[1987年5月]) による内需刺激策をとったのである。これにより景気は拡大基調を続けたのであるが、やがてバブルが展開する状況に至った。政府はこのとき金融引き締めをとることはなく、バブルの暴走を許してしまった。
この状況下で大きな政策的失敗につながる事態が進行していた。わが国の金融構造に生じていた間接金融から直接金融 (・もしくは自己金融) へのシフトという現象である。戦後一貫して続いていた銀行の安定的な経営方式が、企業の自己金融・直接金融への大幅なシフトにより崩れることになった。おまけに貿易収支の大幅な黒字により日本の外貨準備高は急増しており、その結果、銀行に流入するマネー・サプライも激増していた。銀行は、これまでとは異なり、有り余る資金の貸付先を新たに開発する必要に迫られていた。
他方、バブルの進行を阻止すべく、政府は不動産融資の「総量融資規制」(1990年3月) に始まる一連の急激な引き締めを行ったのであるが、それはバブルの突然の崩壊を引き起こす事態をもたらし、急激な経済の悪化を招くことになった。多くの金融機関は「不良債権」問題を抱えて呻吟するようになったのである。
しかし、その後の政府は、既述のように景気対策と構造改革を交互に繰り返すことになった。景気対策により経済は回復に向かう局面もあったが、構造改革(それはデフレ策である)によりそれは中断された。2000年に入って、ゼロ金利政策と量的緩和策は「円キャリー・トレード」という副産物をもたらし「イザナミ景気」を生み出すことになったが、力強さに欠ける「カゲロウ景気」であった。
ここで繰り返す必要があるのは、日本経済のこの20年間のパフォーマンスが悪いというのはGDPという基本指標でみるかぎり(あるいは失業率でみるかぎり)、当てはまらないということである。そしてそのかぎりで、日本政府の経済政策が完全な失敗であったということも、いえないのである。失敗したのは、日本経済が成長路線に乗らなかった、政策的に乗せられなかったという点にある。
2.3. 世界経済に占める日本経済の低下 ―「失われた10年」の真因
1980年代を通じ、アメリカ経済は激しいスタグフレーションに襲われていた。
経済的には日本や西ドイツが世界経済を牽引しており、ために日本は絶えずアメリカとの貿易摩擦を引き起こしていた。軍事的、政治的に弱小の日本はその企業努力、QC活動、革新的な技術の探究により、世界に冠たる工業製品を創出する国として際立っていた。まさに経済的にみて日本は超一流であったのである。
しかし、日本はまさに絶頂期に溢れるマネー・サプライのもと、土地、住宅、株式価格の上昇というバブルに突入し、その対処に失敗したために思わぬ停滞状況に陥ることになってしまった。ようやくそこからの立ち直りをみせ始め、弱弱しく続いていた「イザナミ景気」も、リーマン・ショックの影響を受け、輸出が破綻し、再び底なし沼の不況に陥ってしまっている。これらの過程において、かつては日本的経営として世界に名をはせた日本企業にも、そして労働者、サラリーマンの生活環境にも、著しい不安定性が襲っている。
アメリカは1980年代から、とりわけ金融面での自由化を大幅に進めっていった。その過程で「シャドウ・バンキング・システム」が巨大化するとともに世界を金融的にリードしていくようになった。それは1990年代から、IT産業の爆発的展開とあいまって、アメリカ経済はそれまでとは打って変わった好調さを示すようになった。市民は消費を満喫し、企業は自信を取り戻していった。
同じ期間、社会主義圏が資本主義システムに転換するという世界の政治・経済システムに劇的な変化が生じ、その転換は大きな混乱を引き起こすことになった。
が、21世紀になって生じた重要な現象は、新興国B(R)ICSの経済的台頭である。とりわけ、中国経済の圧倒的な成長が目を引く。30年という長い期間にわたり毎年8パーセント以上の経済成長を続けた結果、いまや中国は「世界の工場」の名を冠し、外貨準備高は2兆ドルに達し、資源開発においてもきわめて積極的な行動を展開しており、中国の動向は世界経済を語るうえで無視できないどころか、ビッグ・ツーという表現すら用いられるほどになっている。つい最近までは発展途上国的カテゴリーで語られていた国々が、そうしたカテゴリーを無意味なものにしてしまっているのである。
こうして、世界の経済、政治の構造は、20年前には予想もされなかったものに変わってしまっている。20年前と比べ、世界経済に占める日本経済の地位は、明白に低下している。日本経済が長期にわたって停滞を続けているあいだに、金融面ではアメリカとイギリスが世界を席巻し、実態面ではBRICSや東南アジア諸国が高い経済成長を持続させることにより、その存在感を飛躍的に高めるという事態が現出している。このことを象徴するのが、かつてG5であったのがいまやG20になっている点である。
1990年、日本は購買力平価ベースでのGDPはアメリカの5兆8千億ドルにたいし、2兆3千億ドルで2位であった。2010年のそれは、アメリカ14兆6千億ドル、中国11兆ドルにたいし、4兆3千億ドルで3位である(インドは4兆1千億ドルである)。5
20年前、東京がニューヨークとロンドンに並ぶ「国際金融センター」になるという構図が実現するかにみえたが、いまやそれはみる影もない。20年前、ロボット化の実現による圧倒的な生産性効率を誇った日本の製造業も、IT産業の発達においてアメリカの後塵を拝し、さらには韓国企業や中国企業にもかなり追い上げられる状態になり、円高にも災いされて、国際競争上においても、以前とは比べものにならないほどの厳しい状況下におかれている。
近年の日本の政治システムの脆弱化、国際社会においての発言力のなさは際立っている。皮肉なことだが、日本ほど「自由放任主義」が守られている国はない。アメリカもイギリスも中国もロシアも「国益」をきわめて重視した国際行動をとるなか、一国、日本のみが、「市場原理」に身を委ねている。日本の政治の立て直しは、世界経済における日本の地位を復活させるうえで、不可欠であるが、その見通しは明るくはない。