2013年8月4日日曜日

グローバリゼーションを問う ― 光と影



グローバリゼーションを問う ― 光と影

1.はじめに - グローバリゼーションとは何か

1980年代中葉以降、米英が中心となって世界は「グローバリゼーション」の進展をみた。グローバリゼーションとは、「地球規模での市場経済化現象」と集約的に表現できる。これは「金融のグローバリゼーション」(以下、FGと呼ぶ)と「市場システム [もしくは資本主義のグローバリゼーション」(以下、MGと呼ぶ)に分けることができる。
 FGとは、金融業が地球上のどこにおいても、どこからも監視を受けることなく活動できるようになる現象である。金融業は資金をさまざまな手法を用いて巨額の資金を調達し、それをもとにさまざまな国の金融市場に参入していき、その結果、金融市場の地球規模での一体化が実現されていくことになった。
MGをみてみよう。「市場システム」とは、財・サービスが市場を通じて取引されるシステムのことである。そこにあっては、労働までもが商品として売買されるシステムが確立されていることが重要な意味を有する。このような「市場システム」が地球上のより多くの国で採用され浸透していく現象がMGである。
それではFGとMGの関係はどうであろうか。近年みられた顕著な傾向は、FGの進行がMGの進行を促進したという点である。金融業は、世界のあらゆる地域に目を見張り、収益をあげられそうな地域に積極的な投資を行う活動の先頭に立った。FGの進展により、巨額の資金が (金融業を通じて多国籍企業や地元有力企業に流れ込むことになったのである。この傾向は、IT技術の進展現象とあいまって、これまで長きにわたって停滞していた開発途上国のいくつかが飛躍するうえでの大きな契機になった。
他面、FGの進展は金融資本の (適切な成長を超えた膨張を招き、しかもそれらは「シャドウ・バンキング・システム」 (以下、SBSと呼ぶとして発展していったため、各国政府によって金融機関の行動を監視することが時を追うにつれて困難となっていき、世界経済は金融機関の投機的行動により不安定度を増していくことになった。
 グローバリゼーションがもたらした世界の政治経済システムへの大きな変化として、3点をあげることができる。第1に米英金融資本による主導権奪取(FGによる)、第2に米ソ冷戦体制の崩壊と資本主義システムへの収斂(MGによる)、第3に新興国の出現(MGによる) である。本稿ではこれらを順次、検討していくことにする。
2.米英金融資本による主導権奪取 - 「金融のグローバリゼーション」
FGが生じた背景には、1970年代から1980年代にかけて、それまでのアメリカ経済を中心とする世界資本主義システムに大きな陰りがみられたということがあげられる。戦後の資本主義世界を規定してきた通貨体制としてのブレトンウッズ体制は、1960年代にはいくたびかのドル危機を経て弱体化をみせていたが、ついに1971815日のいわゆる「ニクソン・ドクトリン」により、ドルは金とのリンクが解除され、以降、スミソニアン協定を経た後、主要国は変動相場制に移行することになった。
 こうした事態の進展の背景には、日独の経済発展が実体経済の領域でアメリカを凌駕していったという点があげられる。この傾向は時を経るにつれて一層顕著なものとなり、日米のあいだでは貿易摩擦問題の継続的展開という様相をみせていくことになった。アメリカは日本に輸出自主規制を半ば強要したりしていた。これらは個別産業間の問題であると同時に、それにもまして貿易収支の問題であった。
 1970年代になると、2つのオイル・ショックが発生した。いずれも中東の政治危機と関連しており、原油産出国カルテルであるOPECの世界政治経済におけるプレゼンスをいやがうえにも高めるものであった。こうして生じた原油価格の高騰は、アメリカを筆頭とする先進国経済を不況に陥れることになった。
  サッチャー首相 (1979-1990)、レーガン大統領 (1981-1989が登場するのはこの頃である。彼らは、低迷する経済を活性化させるために、市場システムの活用、企業者による自由な経済活動、規制の緩和、反労働組合、反福祉国家を唱道した。これは経済学・経済思想でいうと、ケインズ ベヴァリッジからハイエク フリードマンへのシフトに対応する。
こうした世界経済・世界政治の進展のなか、米英が世界の中枢としての地位を取り戻す方法として編み出されることになったもの、それがここでいうFGである。
米英は、金融の自由化を進め、金融機関が規制当局の監視を逃れて自由に投資・投機活動を展開していくことを許容した。そのため、投資銀行、商業銀行、さらにはヘッジ・ファンドが「証券化商品」の開発やレヴァリッジの利用を通じ、おどろくべき規模の投資・投機活動を展開していくことが可能になったのである。
だが、1980年代の前半には日独から米英が世界経済上の地位を回復するという点で、FGがまだ大きな効果を発揮できていたわけではない。この点で大きな効果をもたらすことになったのは、1985年に成立した「プラザ合意」である。これにより、日本は円高を目指した市場介入を強要されることになったのである。
1990年代に入ると、FGはその加速度を増していくことになった。これにたいし1990年代初頭まで世界経済の独り勝ち組とされてきた日本は、「プラザ合意」での対処に失敗し、経済のバブル化に適切な処置をとれなくなり、自縄自縛的な「失われた20」へと突入していくことになったのである
FGを推進した米英の政府当局ならびに金融業界が、どこまでこのような事態の進展を見通していたのかは不明であるが、結果的にFG化運動は、米英の金融資本が世界経済の進む道を決定付けることになった。その過程で日本は、1990年代初頭に到達していた地位を喪失していくことになったのである。
3. 米ソ冷戦体制の崩壊と資本主義システムへの収斂
― MG (1)
グローバリゼーションという現象を考えるさいには、FGとは識別されるMGという概念も必要になってくる。「市場システム」が構築されてこなかった諸国で「市場システム」が構築されていき、しかもそれがグローバル・レベルで普及していくという現象である。本節では、そのうち戦後世界を根底的に規定してきた米ソ冷戦構造が瓦解し、ソ連圏 (中国も含めるが「市場システム」を採用するに至ったという点を扱う (MGではもう1つ「新興国」の出現という問題があるが、これについては次節で取り上げる)
3.1. 社会主義システム
「市場システム」(資本主義システムを採用する国の代表格は、アメリカ、日本、EUである。他方、「社会主義システム」を採用してきた国の代表格はソ連圏および中国である。
「社会主義システム」は、1980年頃から大きな綻びをみせ始め、1990年頃には崩壊するに至った。ソ連圏と中国は、その移行プロセスは「ショック療法」と「漸進型」という顕著な相違が認められるが、「社会主義システム」を棄て、「市場システム」を採用するに至った点では同じである。
 2つのシステムにあっては、経済運営の原理が根本的に異なっていた。その相違を一言でいえば、市場をその中枢に据えるかいなかにある。無数の経済主体が独自の判断と責任により財・サービスを生産・販売し、そしてそれらを需要・購買するという「市場システム」を採用するのか、それとも国家による計画経済を中心に据え、トップ・ダウン方式により、工場をはじめとする下位の組織が計画によって割り当てられた量を生産・配給するシステムを採用するのか、の違いである。
とりわけ「市場システム」にあっては、企業、消費者が経済活動の中心的な役割を担うのにたいし、「社会主義システム」にあっては、企業なるものは存在せず、消費者も財・サービスの多様な発展に寄与することはできないし、期待されてもいない。さらに「市場システム」にあっては、金融が経済システムにたいして果たす役割はきわめて大きいのにたいし、「社会主義システム」にあっては、すべてが国家による経済計画で決定されるわけで、金融は存在しないも同然であった。
1990年頃には、MGはこれらの地域を席巻することになった。中国における「市場システム」化プロセスは、ソ連圏とは異なるかたちで、かつ10年ほど先行して始まっているが、これもMGを象徴するできごとであった。
3.2. なぜソ連は崩壊したのか
ソ連を中心とする社会主義システムが崩壊したのは1989年、ソ連自体が解体したのは1991年のことである。
なぜソ連は瓦解したのだろうか。社会主義というシステムに根本的な問題があったから必然的に崩壊する運命にあったのだろうか。資本主義というシステムをとらなかったために、アメリカやEUとの競争に敗れたのだろうかそれとも、政治システムが自由を許容しない抑圧的・独裁的なものであったがゆえに、経済・社会の発展を阻害し、そのことが崩壊の原因であったのだろうか。
 後づけでは、いろいろなこと、いろいろな理由を挙げることができよう。しかし、1917年のロシア革命以降、70年近くにわたり維持されたシステムを上記のような事情をあげて理由づけしたからといって、その崩壊を説明したことにはならない。
 以下では、1970年代以降に焦点をおいて、より「現実的に」ソ連の崩壊現象をみていくことにしたい。
3.2.1. 石油価格の急落とアフガン戦争の敗北
ソ連 (そして現在のロシアは、昔もいまも石油・天然ガスに、その経済を大きく依存している。財政も輸出も、これらの天然資源の価格に大きく翻弄されてきている。
1970年代は2度の石油ショックがあり、OPECを通じて原油価格が大幅な値上がりをみせ。原油高が大きな原因で不況に陥った先進国は中東以外の地域での油田開発にやっきとなった。その成果が北海油田アラスカ油田など発見でありおかげでOPECに依存しない石油の供給量大幅増加をみせ。他方、石油を消費する側の産業でも、その効率的使用のための技術開発が急速な進歩をみせた。加えて、石油に代わる代替エネルギー (原子力などの開発も進行した。こうした需給両サイドの要因により、1980年代も中葉になると、状況は一転、原油価格の急激な下落が生じたのである。
石油は昔からきわめて政治的・軍事的な権益・利害に翻弄されてきた商品であって、上記のような経済的要因だけでその価格の変動を説明できるようなものではない。そもそも第2次石油ショックは、中東の政治情勢の激変に起因している。1979年、ホメイニによるイラン革命が発生しパーレビが崩壊した。イラクのフセインはこの機に乗じイラン攻め入った。 イラン・イラク戦争 (1980-1988の勃発である。この戦いは1985年頃にはアメリカが支援するイラクの敗色が濃厚イランがほぼ勝利をおさめる寸前という展開をみせた。このとき、アメリカはサウジアラビア石油の大増産を要請している。サウジアラビアは19824月に決定した生産割当制を破り、198511月、増産に踏み切った。このことは、1986年に原油価格が暴落する大きな原因であった(ドバイ原油は1月の26ドル/バレルが8月には7.7ドル/バレルに下落)。
このため、石油に大きく依存しているソ連は財政収入の極端な減少に苦しむことになった。それに加えソ連はアフガン戦争 (1979-1989大量の兵力を投入していた。この戦争の背景には、イスラム勢力の拡大が、ソ連内のイスラム圏に波及するのを阻止するという目的があり、短期制圧による収拾を目指すものであった。だが、戦いは苦戦を強いられて長期化・泥沼化し、ついにはソ連屈辱的な撤退で終結をみることになったのである。
こうして1980年代石油価格の傾向的下落、ならびにアフガン戦争の泥沼化ソ連の財政的・軍事的基盤急激に弱体化させることにつながった
 アフガン戦争でもそうであったのだが、ソ連の軍事技術は次第にアメリカの後塵を拝するようになってった。核開発技術は超一流であったが、通常の戦争はそれによって遂行できる性質のものではなかった。とくにソ連にとって衝撃的ったのは、1982年のレバノン戦争 において、支援するシリア軍が保有する大量のミグ戦闘機イスラエル軍撃墜された事件である。ソ連指導部は軍事技術の遅れを痛感することになり、その解決希求する大きな契機となった
3.2.2. ゴルバチョフの登場 - ペレストロイカとグラスノスチ
「ブレジネフ時代」 (1966-1982は、しばしば「停滞の時代」と形容される。ゴスプランによる計画経済は重工業と軍事産業 (宇宙開発を含むに予算・資源を傾斜させる方針で運営されていた。このため、これらの分野では世界的にみても顕著な実績を誇っていた。だが反面、消費財は抑え込まれ、それらは配給制のもたらす行列を通じてのみ購入できるという事態が日常化していた。同時期、資本主義経済にあっては、民生品分野での技術革新が相次ぎ、それらは企業間の競争を通じて、より洗練された製品として市場で取引されるという事態が日常化していた。もとより、それらの技術は、軍事にも波及したわけで、ソ連圏は武器の技術面においても大きな遅れをみせていったのである。  
とはいえ、ブレジネフ時代のソ連は、依然としてアメリカと並ぶ超大国であり続けた。世界における「社会主義の盟主」として、反共勢力に軍事支援を行うアメリカとのあいだで、さまざまな代理戦争を繰り広げていた。それに、ソ連は科学教育を通じ非常に高度の能力を有する専門家を輩出していた国であったことも忘れてはならない。したがって、ソ連の崩壊を説明するのに、それが市場メカニズムを無視した社会主義システムを採用していたからいずれ崩壊する運命にあったのだ、と断ずるのはいささか性急であろう。
こうしたなか、頭角を現したのがゴルバチョフ (1985年に書記長であブレジネフの後を襲ったアンドロポフは、改革が推進されないかぎり、ソ連体制はあやういという危機感を抱いており、その期待を背負っての抜擢であった。
彼が書記長になってまもなく、チェルノヴィリ原子力発電所爆発という悲惨な事故が発生した。ゴルバチョフはこの知らせをスウェーデン政府から聞かされて知った。まさに危機管理のずさんさに加えて組織的弛緩を世界に知らしむるところとなった。グラスノスチ (情報公開はこのことを契機に生まれた標語である。それにもう1つの標語がペレストロイカ (再建であった。
 ゴルバチョフの時代の経済的な改革としては、個人営業の認可や、国営企業法の制定があげられる。だが、そうした改革は非常に限定的なものであった。ゴルバチョフが歴史的にみて大きな改革を進めたのは政治の領域である。政治的な自由を、これまでのソ連からは考えられないようなスケールで容認していったのである。それは「新思考」とか「欧州共通の家」とか称されたのであるが、とりわけ重要であったのが東欧の民主化運動の容認である。もともと、いくどかそうした運動を試みてきた東欧諸国であるから、ゴルバチョフのこの方針はその運動に火をつけ、油を注ぐものであった。
 この政治的自由化のうねりは、ついに1990年、東ドイツが西ドイツに統合されるという事態に発展した。ゴルバチョフは、西ドイツ首相のコールからの経済支援を受け入れることで、この統合を容認したのである。
 国内にあっても、ゴルバチョフは19903月、複数政党制を認めるとともに大統領制を導入し、自ら初代の大統領になっている。
東欧における民主化運動の広がり、国内での政治的自由化の広がりがみられるようになってくると、ソ連邦に所属する他の国家 (例えばバルト3にも独立の気運が高まるようになってきた。
 これらの動きは、自ずからゴルバチョフの指導力を減退させることにつながっていたのであるが、それを決定づけたのは19918月に発生したクーデターである。これはゴルバチョフの側近によって起こされたもので、ペレストロイカの推進にたいする不満・批判であった。クーデターは失敗に終わったが、これを機に、大統領の威信は地に落ちた。代わって権力を高めたのがクーデターの鎮圧に功績のあったエリツィンである。彼は、ロシアのソ連邦からの脱退を宣言した。ソ連は瞬時にして消滅するに至ったのである。
 ゴルバチョフの活動をグローバリゼーションとの関連でとらえるならば、次のようになる。ゴルバチョフ自身が、社会主義システムを意識的に資本主義システムに改造するということはなかったし、その意思もなかった。だが、彼が政治的自由を広範囲な地域で許容していったことで、東欧圏の資本主義化は当該国の指導者によって進められることになった。そしてそのさい、MGFGによって周辺にまで及んできていた市場社会化現象は、ロシア領内にもなだれを打って入ってきたのである。
3.3. 中国の「市場システム」化
同じく社会主義圏とはいっても、中国はソ連とは異なった道を歩むことになった。1978年に文化大革命が4人組の処刑により終結した後、鄧小平が共産党の実権を握り、「改革開放路線」が採用された。これは実質上の「市場経済」化宣言であり、企業活動、市場取引を通じて、豊かになれるものから豊かになるべし、という方針が打ち出された (いわゆる「先富論」。さらには、近代的な技術を導入すべく、外国資本の積極的な導入を歓迎するという政策であった。
 「改革開放路線」以降の中国で顕著なのは、共産党の指導力が強靭であり、かつ一党独裁システムが維持されてきたという点である。そして共産党が「共産主義システム」を守る政党という看板を下ろすことのないまま、事実上、中国経済を「市場システム」に変換させることに驀進してきたという点である。
経済的には、これが中国のこれまで歩んできた道である。その意味で、中国はMGを自発的・積極的に取り入れてきたといえる。そしてソ連とは異なり、このことを中国共産党の指導下で行ってきている。共産党は一党独裁であるが、経済的に採用している基本戦略は、徹底した「市場システム」化の推進であり、外国資本の歓迎であり、そして先進技術の習得と導入であった。そして民間活力を尊重し、人々が自由に起業活動を起こすことを奨励してきた。したがって、一党独裁というシステムに異を唱えないかぎり、人々は自由な経済活動、そして発言を許されてきたのである。
4. 新興国の出現
― MG (2)
MG (2) は、それまで発展途上国と呼ばれていたいくつかの諸国にあって、大きな経済発展をもたらすことに貢献した。米英の企業が希望していたことかいなかは別として、企業活動のグローバル的展開は、資本移動と財・サービスの貿易取引を通じ、著しい経済的発展をもたらしていった。
他方、発展途上国のなかには、こうした動きを受け止めて、自国経済の発展、自国企業の発展を意識的に推進していく人々が輩出することになった。その結果、B[R]ICSに象徴されるような新興国が出現し、いまでは世界経済の動向に大きな影響力を及ぼすまでになっている。そして重要なことは、世界経済が、これまでの「成長を続ける先進国と停滞する発展途上国」から、リーマン・ショックの後、「停滞に苦しむ先進国と躍進を続ける新興国」という構図に変わっている点である。とりわけアジア圏は軒並み経済の成長が著しい地域である。それに加えてブラジルを筆頭に南米諸国の成長が注目を浴びている。これは、一方では中国やインドの経済成長が鉱物資源や農産物にたいする需要の急増をもたらしたこと、他方では安定した金融システムを有していたこと、によるところが大きい。
その結果、アメリカ1990年代の初頭に期待したようなアメリカ一国による世界支配という構想は崩れ去っており、世界は新たな世界秩序を模索する段階に入っているといえよう。
むすび
1980年代中葉から始まったグローバリゼーションは、世界経済に次のようなインパクトをもたらした。
 第1に、それは世界経済における実物的・金融的地位の持続的な停滞に苦しんでいた米英が、プレゼンスを高めていた日独からその地位を奪い返すことに、かなりの程度成功することになった。米英金融資本を中軸にしたFGがそれである。これは、資本主義システムをとる先進国のあいだでの経済的指導権のシフトとして特徴づけることができる。だが、このFGは、世界の資本主義システムを「カジノ化」することで、非常に不安定なものにすることになった。
 第2に、グローバリゼーションは、米ソ冷戦体制の崩壊と資本主義システムへの収斂化をもたらした。米ソ冷戦体制の崩壊は、もちろん、ソ連を中心とする社会主義システムの崩壊の意である。ソ連圏が崩壊したのは、石油価格の下落、アフガン戦争の泥沼化などによる財政的・軍事的弱体化が根底的な原因であり、それに計画経済のもつ弱点とシステム疲労が重なったからである。グローバリゼーションの波がロシアを襲うようになるのは、ロシアがすでに、いわば自然壊滅的状況に陥った後のことである。     
中国の場合、それまでの「大躍進」、「文化大革命」がもたらした経済的・社会的悲惨を、それに反対してきた「走資派」が権力を奪取したことで、MGを自発的・積極的に取り入れてきたといえる。
 第3に、グローバリゼーションは、いわばその波をうまく活かす新興国を出現させた。高い経済成長を達成してきている新興国は、リーマン・ショック後の経済的停滞から脱出できない先進国を尻目に、世界経済におけるプレゼンスを益々高めるに至っている。
参考文献
Hirai, T. [2010], Financial Globalization and Instability of the World Economy, Read at the Globalization Workshop, Sophia University, October 23.
平井俊顕 [2009],「資本主義 (市場社会はいずこへ」『現代思想』5月。
平井俊顕 [2010],「資本主義を考える- 本性・アバウトさ・収斂化」『統計』5月。
平井俊顕編 [近刊], 『どうなる私たちの資本主義 ― 現代市場社会の「解体新書」』SUP上智大学出版。
B. フルフォード [2009], 『アメリカが隠し続ける金融危機の真実』青春出版社。
M. シュテルマー [2009],『プーチンと甦るロシア』(池田嘉郎訳、白水社)。
(私のブログのなかの「世界経済ウォッチング」
http://blogs.yahoo.co.jp/olympass/folder/1599238.htmlも合わせて参照されたい。)