資本主義を考える
― 本性・アバウトさ・収斂化
1. はじめに
わたし達がいま生活している経済・社会システムは「資本主義」と呼ばれている。そのことはだれでも知っている。だが、資本主義とは何なのかを説明できる人、もしくは考えたことのある人は存外少ない。何となくこの用語は使われている。
本稿は、この点 ―「資本主義とはどのようなシステムなのか」― を私の理解に基づいて説明しようとするものであり、次の構成で進められる。最初に、資本主義とはどのような本質的特性を有するシステムであるのかを説明する(第2節)。続いて、資本主義システムに潜む「アバウトさ」(あいまいさ)という点に注目し(第3節)、最後に、この20年間に生じた重要な現象である「資本主義への収斂」という現象をみることにしたい。
2. 資本主義の本質的特性
資本主義の本質的特性として、ここではとくに(私が) 注目に値すると考えている4点をあげることにしたい。動態性、市場と資本、企業、不確実性である。
2-1.動態性
資本主義を根底的に特徴づけるのは、何よりもその動態性(ダイナミズム)にある。資本主義は成長を本質とするダイナミックな経済・社会システムである。それは二重の意味で動態的だ。一方で、資本主義は、分業の進展と競争を通じて、そしてそれらが誘発する技術革新を通じて、生産の増大・成長をもたらす (これはアダム・スミスが『国富論』で展開した主題そのものである)。他方で、資本主義は、既存の社会システム・制度 (それは伝統社会であったり、既存の産業であったりする)を浸食・破壊していく。資本主義化の論理は凄まじい力で自己を貫徹させようとする特性 (ある人はこれを「解き放たれたプロメテウス」と称した) を有しているからである。
資本主義は成長衝動を内包するシステムであり、その爆発力が資本主義化を促進するとともに既存システムを破壊するため、不安定性をも内在するシステムである。人間は欲望という誘引に駆られ、このエネルギーを利用することで信じられないような経済成長を世界の各地で実現・達成させてきた (中国はその最新の事例だ)。だが、そのエネルギーは「悪魔の碾き臼」でもある。資本主義システムを自由放任状態におけば、やがてそれは炎上し、バブルを引き起こしたり、深刻な不況を到来させる。そしてすべてのものを台無しにし、多くの人々を失業させ、保障のない不安定な状況を現出することになる。
だからこそ、このプロメテウスの解き放つエネルギー、もしくは「悪魔の碾き臼」が放つエネルギーをいかに制御するのかは、その資本主義化を成功裏に達成していくうえで、これまで過去から現在に至る諸政府がつねに直面してきた重要な課題であった。さらに強調すべきは、このことが「いま」― 30年にわたる[とりわけ金融の]「自由化」のあげく襲った大不況の「いま」- ほど、問われている時はないという点である。
2-2. 市場と資本
では、資本主義の「成長衝動」・「動態性」は、どのような機構・手段を通じて実現されるのであろうか。それは「市場」と「資本」を通じてである。
A. 市場
市場とは、文字通りそこで財やサービスが取引される空間である。売り手(供給者)と買い手(需要者)が登場し、そのあいだで価格が決定され、売買が成立する。これが市場である。市場という組織は歴史上きわめて古くから存在している。例えば古代ギリシアのアゴラや10世紀の中国 (宋王朝)でみられた市場の発展をあげることができる。さらに市場が局地的なものに留まらず、グローバルな展開をみせた重商主義時代をあげることもできる。
だがここで問題にするのは、市場という機構が経済システムの全体を根底的に支配するようになった状態の社会、つまり資本主義システムである。そのようなシステムは、18世紀後半のイギリスから始まり、今日に至るまで多くの国がその後を追いかけてきているものである。
さきほど、市場は財やサービスの売買取引がなされる空間であると述べた。だが、ここでいう「市場」は成長衝動を内包する、きわめて動態的な社会である資本主義を牽引するものであって、けっして静態的なものとしてとらえてはならない(この点への注意が必要なのは、経済学が教える「市場」は徹底して静学的・静態的なものだからである)。
市場はたえず生成し、そして消滅していく。というのも、取引される財やサービスそのものに、そしてそれらを生み出す産業そのものに栄枯盛衰があり、そして栄枯盛衰を繰り返しながら経済システムの成長・発展が展開されていくものだからである。
こうした市場には2つの顕著な特性が認められる。「商品化」現象と貨幣経済性である。
「商品化」現象 - 市場で売買される財・サービスは「商品」と呼ばれる。つまりあるモノが市場取引の対象となったとき、それは「商品化」されることになる。資本主義社会とは、経済活動の最も重要で圧倒的な部分が商品化され、市場を通じて取引されるようになった社会の別名である。
資本主義システムでは、あらゆるモノが「商品化」され、市場での取引の対象になっていく。その最たるものが「労働力の商品化」である。19世紀前半のイギリスにおいて誕生した労働者階級が端緒であるが、今日では資本主義システム下で暮らす人間は、そのほとんどが自らの労働力を労働市場を通じ買手である企業に契約販売している。19世紀初頭に比べ、現在では企業は知的分業化の度合いを高度化させているが、労働力が完膚なきまでに商品化されているという点で異なるところはない。
さらに現在では、かつては存在しなかったようなものまで商品化されている。一昨年9月に発生したリーマン・ショックを引き起こす大きな原因となった「証券化商品」や、環境問題への対処策として話題になる (排気ガス) の排出権取引市場(つまりは [排気ガス] 排出権の商品化)にまで及んでいる。
貨幣経済性 - 市場を際立たせるもう1つの特性は、貨幣を用いて取引がなされているという点である。みかんを売る商人はそれを貨幣と交換する。みかんを買う人は貨幣との交換でそれを手に入れる。つまり、物々交換は資本主義の本質的取引形態ではない。一方に商品が、他方に貨幣があり、それらが交換されるというのが、ここで問題にする市場取引である (経済学では伝統的に、物々交換で市場取引をとらえてきた。貨幣の利用はその取引の本質には影響をおよぼさない、といういわゆる「古典派の二分法」が是認されてきたのである)。
市場について語るさいに、さらに注意しなければならないのは、経済学で通常想定されているのとは異なり、「不確実性」とか「アバウトさ」につきまとわれた装置 (こられについては後述する) であって、けっして資源の最適配分をもたらすものではない、という点である。
B.資本
資本主義の「成長衝動」・「動態性」を実現させていくうえで、市場とならび重要となる手段は「資本」である。資本は「実物資本」と「金融資本」に大別される。実物資本としては工場や生産設備を、金融資本としては貨幣や債券・証券を思い浮かべればよい。市場を動かしていく重要な牽引車が資本である。
先ほど、市場では商品と貨幣が交換される、と述べたが、これだけでは資本主義システムの描写として不十分である。「金融資本」があらゆる市場に目を配り、最も利益を獲得できそうな市場に資金を投入するという点が、資本主義を際立たせるもう1つの特性だからである。 金融資本を調達できない企業や産業は滅ぶしかない。金融資本が利潤を求めて市場システムをかけめぐり、そのことで、ある市場は没落し、ある市場は活気づく、そして産業構造に大きな変革がもたらされ、資本主義システムは成長を遂げていく。
それに加えて、金融資本にはもう1つの特性がある。金融資本自体細分化し、さまざまな金融市場が、したがってさまざまな金融商品が創生されていくという特性である。いわば、金融資本の細胞分裂による自己増殖的運動の展開である (一昨年秋のリーマン・ショックがもたらした世界経済危機は、まさにこうした「金融資本の自己増殖的分化」である「証券化商品」が大きな原因であった)。
以上にみたことは、市場経済というのは、本性的に「貨幣経済」であるという言葉でも表現できるであろう。そしてこの貨幣経済であるという特性が、さまざまな変動を ―あるときはバブル経済を、あるときは深刻な不況を ― もたらすことになる。
2-3. 企業
資本主義システムを特徴付ける第3の本質的要素は企業である。市場で活動する主要な経済主体は、企業、家計、労働者であるが、資本主義の根本的特性たる「動態性」を真に担っているのは企業である。企業は不確実な未来に向けて、大量の資金・人材を投入して、商品の開発、市場の開拓に乗り出して行かねばならない。収益をあげることのできる分野が開拓できない場合、他社との競争に敗れ、存続自体が危うくなるからである。だが、新たな分野というのはその本性上、非常に不確実なものである。そしてそこに乗り出した企業が成功するかいなかは、最終的には市場で評価されるのである。その商品を購入しようとする買い手が十分な数で登場してこないならば、その企業の存続は即座に危ういものとなる。企業のトップは企業組織を未知の危険・不確実性にさらすことになる戦略を実行に移していくなかで、成功をかちとるという困難な課題に直面するのである。
2-4.不確実性
以上に述べた資本主義システムの3つの特性 - 動態性、市場と資本、企業 ― は、資本主義システムのもつ積極的・肯定的な側面をとらえたものといえる。
これにたいし、次に示す特性は、資本主義システムが多くの「不確実性」にさらされているという点であり、これは資本主義システムの有する危うさ、脆弱性につながっている。
中世の都市のように、生産が注文に応じてしかも小規模で行われる場合とか、奴隷労働に依拠し、しかも生産されるもの(砂糖とか、タバコなど)が貴族階層に引き手あまたのようなプランテーション栽培の場合であればともかく、資本主義システム下での経済活動には、二重にも三重にも不確実な要素がその行く手に待ち構えている。企業は市場での販売を予想しながら生産活動を遂行していかなければならない。それに企業は将来に向けていまから新たな製品開発に努め、それにメドがたったならば、設備投資を計画・遂行し、利潤の拡大実現に努めていかなければならない。しかもそうして出来た製品が予想通りに売れるかどうかは、需要者の懐具合や嗜好のマッチングに大きく依存するものであるから、本性的に予測は非常に難しい。それにもまして、今日の資本主義システムにあっては「金融資本の自己増殖的分化」活動が経済活動の大きなシェアを占めるに至っており、そのため実体経済を担当する企業は、それらの行為に振り回されながら、予測を立て生産・販売活動を遂行していかざるをえず、いっそう予測は困難さを増しているのである。
3. 資本主義の「アバウトさ」(あいまいさ)
資本主義システムは、合理的な行動を自由に選択できる経済主体の活動によって営まれるものであり、それは経済効率性の観点からみて望ましい状態(パレート最適はそれを象徴する考え)をもたらす。それは、市場という、なかば「自然で」、「どの特定の人物からの支配・命令にも依存しないシステム」により、財・サービスの生産・交換が実現されるものであるから、社会主義システムや封建システムと比べ、自由という点で優れている。
経済学はこのように教えてきた。それは確かに、資本主義システムの優れた特性をうまくとらえている。とりわけ独立し、自由を有する諸個人が社会・経済システムの中枢におかれ、そして彼らが「市場」というなかば自然なメカニズムをつうじて経済活動の中心的部分を担う、という点がそれである。
だが、上記の認識には1つの大きな問題点がある。それは「合理性」への過度の信頼である。とりわけ経済学でいう個人の合理性は、「効用の極大化」に限定された非常に偏ったかたちの「合理性」である。また「市場」については、その価格メカニズムが「完全競争」という、これまた限定された非常に偏ったかたちの「合理性」として解されている。つまり、資本主義システムには、「合理的な」個人、「合理的な」市場があるから、他の経済システムよりも優れている、ということには同意するが、問題は、個人の「合理性」、市場の「合理性」の定義が私の理解するものからは著しく離れている点で、合意できるものではない、ということになる。
ここでは、「合理性」の内容をめぐる問題に深入りすることはやめ、資本主義システム自体を(いかなる意味であれ)「合理性」のみでとらえようとするならば、大きな認識の誤り、偏りをもたらすという点を考えてみたい。その一例が、資本主義が有する固有の「アバウトさ」(もしくは「あいまいさ」)である。この点を「市場価格」、「会計」、「債務契約」1の視点から明らかにしていこう。
3-1. 市場価格
需要と供給できまる均衡価格は、市場参加者の極大満足化行動の結果であるから、理想的な価格である、と経済学は教える。しかもそれは相対価格の決定であって絶対価格の決定ではない (貨幣はベールとみなされてきた)。そしてこのような個別市場の相互依存システムとして成り立つ市場経済(つまりは資本主義システムそのもの)は、完全競争下では「パレート最適」をもたらすとして、経済学者は高く評価してきた。
だがこうした見方は、われわれが生活している市場経済システムの本質を、その根底においてとらえているというよりも、捉え損なっているといわざるをえない面がある。
まずは需要と供給の働きで実際に決められているのは絶対価格である。つまり、現実の世界に存在する市場では、ある財もしくはサービスは貨幣との交換が前提にされている。この問題を貨幣ベール観で片付け(市場で決定される価格は相対価格であるとして処理し)ようとすると、資本主義経済の市場メカニズムを見誤る危険性がある。
貨幣が取引の一方で用いられることは、多くの重要な問題をもたらす。ある財が何らかのできごとをきっかけに(例えばうわさ、デマ、コマーシャルにより)人気に火がつき、爆発的に売れたとしよう。絶対価格は大いに上昇をつづけ、当該財を生産する企業に莫大な利益が転がり込む。こうしたことは物々交換のもとでは生じにくいが、貨幣での取引の場合、広範に生じる可能性がある。貨幣は創造されるものである。金融組織はこれを創り出す能力と機能を有する (これは製造業が財をつくるのとは性質を異にする)。そして創造された貨幣でもって問題の財を購入することも可能である(「強制貯蓄」の議論はそうした現象と関係がある)。これらの現象が市場経済を包摂する度合いが大きくなればなるほど、需要と供給の均衡で決まった価格が、市場に参加する経済主体の最適満足化行動の結果であると論じる経済学者の声が、皮相なものにみえてくる(それに、いまここで問題にしている市場は、静態的なものに限られている。実際の市場は、すでに述べたように、動態的なものである。そして経済学者は、こうした動態性、貨幣性を本質的特性とする資本主義システムをうまくモデル化できていない)。
まずは需要と供給の働きで実際に決められているのは絶対価格である。つまり、現実の世界に存在する市場では、ある財もしくはサービスは貨幣との交換が前提にされている。この問題を貨幣ベール観で片付け(市場で決定される価格は相対価格であるとして処理し)ようとすると、資本主義経済の市場メカニズムを見誤る危険性がある。
貨幣が取引の一方で用いられることは、多くの重要な問題をもたらす。ある財が何らかのできごとをきっかけに(例えばうわさ、デマ、コマーシャルにより)人気に火がつき、爆発的に売れたとしよう。絶対価格は大いに上昇をつづけ、当該財を生産する企業に莫大な利益が転がり込む。こうしたことは物々交換のもとでは生じにくいが、貨幣での取引の場合、広範に生じる可能性がある。貨幣は創造されるものである。金融組織はこれを創り出す能力と機能を有する (これは製造業が財をつくるのとは性質を異にする)。そして創造された貨幣でもって問題の財を購入することも可能である(「強制貯蓄」の議論はそうした現象と関係がある)。これらの現象が市場経済を包摂する度合いが大きくなればなるほど、需要と供給の均衡で決まった価格が、市場に参加する経済主体の最適満足化行動の結果であると論じる経済学者の声が、皮相なものにみえてくる(それに、いまここで問題にしている市場は、静態的なものに限られている。実際の市場は、すでに述べたように、動態的なものである。そして経済学者は、こうした動態性、貨幣性を本質的特性とする資本主義システムをうまくモデル化できていない)。
どのような価格が「公平な」価格なのだろうか。それを本当に市場メカニズムは決めることができるのだろうか。とりわけ貨幣、そして信用創造が巨大な規模で展開している今日の資本主義システムにあっては、需給均衡によって決定される価格は「公平」という基準から遠いものになっている可能性がある。ではそれに代わりうる価格決定のメカニズムはとなると、残念ながらそれはない。われわれは市場というものを基本的に尊重する必要がある。しかし、だからといって市場を妄信するようなことがあってはならない。所詮、市場も人間が創設したものであり、そのありようをめぐっては、絶えず監視の目を光らせ、ある種の「公平さ」を基準に取捨選択していくことが必要なのである。
3-2. 会計
企業は取引活動を行い、それでどれくらいの利益を得たのか(損をしたのか)を知るには、取引を(財務会計の規則に則って)記録した財務諸表を通じて、初めて知ることができる。非常に商品の売れ行きがよく、飛ぶように売れていたとしても、それでいったいいくらの儲けが出たのかは帳簿を通じてしか、だれも知ることはできない。そして重要なのは、この計算はどのように厳密に遂行したとしても、多くのあいまいな要素を残したものであるという点である2。
一例として、1月1日に1つのパンを100円で売ったとしよう。半年たった6月30日に、同じパンを売ったとする。このとき、物価が10倍になっていたとすると、このパンは1000円で売れたことになる。
この単純な取引で決算を迎えたとすると、売り上げは1100円になる。かりにパン一個のコストは1月1日では30円だとすると、6月30日には300円ということになる。すると全体のコストは330円で、利潤は770円ということになる。そしてこの企業はそのように税務署に申告するとしよう。
この事例をみて、だれでもただちに思うのは、この計算が10倍というインフレ(見方を変えれば貨幣価値の下落)について何の考慮もしないで行われているということである。もし物価が安定しているのであれば、パン2個だから200円、コストは60円、そして利潤は140円となり、この場合は企業活動の成果が忠実に反映された「合理的」な計算だといえる。同じ貨幣価値でこの企業の営業成績が計算されているからである。然るに、いまの事例では、物価が10倍になっていても、この企業は売り上げ1100円、コスト330円、利潤770円としか記帳することができず、帳簿は本当の取引状況を反映させたものにはなっていない。
いまのはたった1つの企業の例であるが、実際の資本主義経済では、日々の膨大な取引が半年にわたって展開され、そしてその間に物価が上昇を続けているような場合(あるいは物価が下落を続けているような場合)、すべての企業に上記の状況が続いているわけで、それを集計したものは、全体としての経済のパフォーマンスを正確に反映させた「合理的」な計算にはなっていないのである。
現実問題として、各企業はそのときそのときの取引価格をもとにしてその利潤を計算するしかない。そしてこの計算は、「計算単位」としての貨幣に全面的に依存する(言い方を換えれば、「貨幣錯覚」を容認する)ことになる。かくして資本主義経済にあっては、巨大な規模での「貨幣錯覚」を除去するすべがなく、会計計算がなされており、そしてこれらをもとにしてしか国民所得計算はできないのである。
こうして会計という手法は、資本主義システムにあって根本的に重要なものであるにもかかわらず、いかに財務会計の規則に忠実に行ってみても、それが計算単位としての貨幣に依存するしかなく、そしてそれゆえに貨幣錯覚に陥ったまま、あやしい計算結果を招来するという事実を変えることはできないのである。
一例として、1月1日に1つのパンを100円で売ったとしよう。半年たった6月30日に、同じパンを売ったとする。このとき、物価が10倍になっていたとすると、このパンは1000円で売れたことになる。
この単純な取引で決算を迎えたとすると、売り上げは1100円になる。かりにパン一個のコストは1月1日では30円だとすると、6月30日には300円ということになる。すると全体のコストは330円で、利潤は770円ということになる。そしてこの企業はそのように税務署に申告するとしよう。
この事例をみて、だれでもただちに思うのは、この計算が10倍というインフレ(見方を変えれば貨幣価値の下落)について何の考慮もしないで行われているということである。もし物価が安定しているのであれば、パン2個だから200円、コストは60円、そして利潤は140円となり、この場合は企業活動の成果が忠実に反映された「合理的」な計算だといえる。同じ貨幣価値でこの企業の営業成績が計算されているからである。然るに、いまの事例では、物価が10倍になっていても、この企業は売り上げ1100円、コスト330円、利潤770円としか記帳することができず、帳簿は本当の取引状況を反映させたものにはなっていない。
いまのはたった1つの企業の例であるが、実際の資本主義経済では、日々の膨大な取引が半年にわたって展開され、そしてその間に物価が上昇を続けているような場合(あるいは物価が下落を続けているような場合)、すべての企業に上記の状況が続いているわけで、それを集計したものは、全体としての経済のパフォーマンスを正確に反映させた「合理的」な計算にはなっていないのである。
現実問題として、各企業はそのときそのときの取引価格をもとにしてその利潤を計算するしかない。そしてこの計算は、「計算単位」としての貨幣に全面的に依存する(言い方を換えれば、「貨幣錯覚」を容認する)ことになる。かくして資本主義経済にあっては、巨大な規模での「貨幣錯覚」を除去するすべがなく、会計計算がなされており、そしてこれらをもとにしてしか国民所得計算はできないのである。
こうして会計という手法は、資本主義システムにあって根本的に重要なものであるにもかかわらず、いかに財務会計の規則に忠実に行ってみても、それが計算単位としての貨幣に依存するしかなく、そしてそれゆえに貨幣錯覚に陥ったまま、あやしい計算結果を招来するという事実を変えることはできないのである。
国民所得会計では、ミクロ・レベルでは名目値で計算を行い、その集計結果としてマクロ・レベルの数値が出てきた後、物価指数によって実質化することで上記のインフレ・デフレにより貨幣錯覚を修正している。これは重要な手法であるけれども、実際に経済活動を行っている経済主体は名目値(すなわち、貨幣錯覚を有したまま)に依拠して会計計算を行っているという事実を変えるものではなく、実質GDPはいわば後付けで算出されている(そしてこれしか方法はない)3。
3-3. 債務契約
現代の資本主義社会では多種多様の債務契約が結ばれている。契約の目的は多種多様であるが、共通していえるのは、すべて計算単位としての貨幣を基礎に結ばれているという点である。
例えばある契約では、その債券が100円で売買され、それにたいし、向う5年間、毎年10円の利息が支払われる、というようなかたちになっている。いま市場での売買を考慮しない場合、債権者は毎年10円の利息を受け取り、5年後に100円の返済を受けることになる。
この間に、インフレが起き、例えば物価が毎年100パーセント上昇していったとしよう。すると、5年後の100円はもちろんのこと、毎年受け取る利息の10円も、いまの100円、いまの10円とはまったく異なる低い価値をもつ。この場合、債権者は非常な損失をこうむることになる。逆にデフレが起き、物価が毎年100パーセントで進行していった場合は、上記とは逆に、債務者は塗炭の苦しみを味わうことになる。
だが、資本主義システムが多種多様の債務契約を、貨幣タームで結ぶかぎり、上記のような問題を避けることはできない。人々は現在の金融状況を反映するかたちでしか、契約内容を決定することはできず、そしてそれは貨幣を計算単位として採用することで締結される意外、方法がないのである。人々は、「自覚された」貨幣錯覚(貨幣を計算単位として用いると、インフレ、デフレ時にあっては経済的混乱を引き起こすことは分かってはいても、そうするしかないという意味)のもと、日々、債務契約を結んでいるのである。資本主義システムにあって貨幣的な契約はきわめて基本的な取引行為であるにもかかわらず、そこには「あいまいさ」(もしくはアバウトさ)がつきまとっている。
例えばある契約では、その債券が100円で売買され、それにたいし、向う5年間、毎年10円の利息が支払われる、というようなかたちになっている。いま市場での売買を考慮しない場合、債権者は毎年10円の利息を受け取り、5年後に100円の返済を受けることになる。
この間に、インフレが起き、例えば物価が毎年100パーセント上昇していったとしよう。すると、5年後の100円はもちろんのこと、毎年受け取る利息の10円も、いまの100円、いまの10円とはまったく異なる低い価値をもつ。この場合、債権者は非常な損失をこうむることになる。逆にデフレが起き、物価が毎年100パーセントで進行していった場合は、上記とは逆に、債務者は塗炭の苦しみを味わうことになる。
だが、資本主義システムが多種多様の債務契約を、貨幣タームで結ぶかぎり、上記のような問題を避けることはできない。人々は現在の金融状況を反映するかたちでしか、契約内容を決定することはできず、そしてそれは貨幣を計算単位として採用することで締結される意外、方法がないのである。人々は、「自覚された」貨幣錯覚(貨幣を計算単位として用いると、インフレ、デフレ時にあっては経済的混乱を引き起こすことは分かってはいても、そうするしかないという意味)のもと、日々、債務契約を結んでいるのである。資本主義システムにあって貨幣的な契約はきわめて基本的な取引行為であるにもかかわらず、そこには「あいまいさ」(もしくはアバウトさ)がつきまとっている。
4. 資本主義への収斂現象
4-1. 「社会主義」システムの登場と崩壊
ここまで資本主義とはどのようなシステムであるのかを、その特性、ならびにそこに潜む「アバウトさ」に焦点を合わせて検討を加えてきた。だが、「資本主義」を1つのレジームとしてみたとき、絶えずその優劣が比較されてきたライバルとしての「社会主義」がわれわれの眼前にその姿を現すことになる。経済学者もこの優劣について、資本主義を賛美する側と社会主義を賛美する側に分かれ、戦間期には大きな論争を展開した(いわゆる「社会主義経済計算論争」)。
戦後になると、米ソ冷戦体制が定着し、2つの対立する経済システムがその優劣を競うようになった。両陣営のシステムは明らかに異なるものであった。社会主義システムにあっては、市場、企業、そして価格メカニズムは存在しないといってよい。財・サービスに値段は付けられ売買されるけれども、その価格は市場で決定されるわけではない。経済全体の生産活動は国家中央計画局で決定され、下部組織はその命令に従いながら生産活動が展開されるのであり、そこでは企業家による自発的な活動の余地はない(というか、意識的に禁止されている)。
だが、このレジーム間の優劣をめぐる争いは、1990年頃、ソ連ブロックの文字通りの崩壊により、突如として終焉を迎えることになる。
社会主義システムは、瓦解するべくして瓦解したのであろうか。瓦解した後、後付けでそう断定することはたやすい。しかし、瓦解する直前までこれほど完膚なきまでに瓦解すると想像した人はほとんどいなかったといってよい。瓦解を予言したのは、一人極端な自由主義者 (リバタリアン)であるが、それは資本主義の崩壊を主張し続けた極端な左翼イデオローグと態度において異なるところはない (どの社会も体制もいつかは崩壊するものである)。
よくも悪しくも、人間はすぐにこれまでのことを忘れる4。1930年代、アメリカをはじめ、世界の資本主義システムの崩壊が続くなか、一人ソビエトは経済成長を実現させていた。それに、1960年代の「重厚長大」の時代、ソビエトの経済パフォーマンスはけっしてアメリカに劣っていたというわけではない。
4-2. 資本主義システムへの移行過程
しかし、ソ連システムが崩壊した後、だれもがソビエト型社会主義の弱点に注目し、そして資本主義システムが勝利すべくして勝利したという話を信じ込むようになった。本節はこの是非を問う場として設定されてはいない。むしろここで注目したいのは、崩壊した社会主義陣営が、それまでとは一転、経済システムとして押しなべて資本主義システムを採用しつつ、この20年間を過ごしてきたという点である。この点を、ロシアと中国の採用した対照的な (資本主義への) 移行方法に焦点を合わせてみていくことにする。
A. ロシアの歩んだ道
ソ連ブロックが文字通り瓦解し、ソ連自体もヤナーエフによるクーデターの発生(1991年8月)とその鎮圧の後、12月の「ベロヴェーシ合意」により「独立国家共同体」(CIS)が成立し、ソ連は国家として消滅することになった。CISのなかの最大の国家がロシア連邦であり、そこで権力を掌握したのがエリティンである。
エリティン大統領は、いわゆる「ショック」療法により、ロシアの資本主義化を目指す方針を採用した。在任期間は1991年-1999年におよぶが、その治世は前半と後半で特徴を異にする。
前半は「ショック療法」による急激な資本主義化の時期である。これはガイダルおよびチュバイスによって進められたが、このときポーランドの改革で成功を収めたサックスを顧問に迎えた。サックスはシュライファー5(庇護者はサマーズ)を迎え入れ、彼らの手により、ロシアの資本主義は進められた。それは価格の自由化、「バウチャー方式」による国営企業の民営化、株式市場の創設などで構成されていたが、その成果は惨憺たるものであり、1992年には前年に比べ2510%のインフレ、GDPは14.5%減となった。
このハイパー・インフレの進行と社会保障システムの崩壊により多くの大衆の生活が破綻をきたしたのみならず、バウチャー方式は「オルガルヒ」(新興財閥)の誕生をもたらすことになった。
後半は、政治的・経済的混乱期である。1993年10月の「モスクワ騒乱事件」に始まり、1996年の大統領選挙の際、苦戦したエリティンは選挙キャンペーンにおいて「オルガルヒ」に大きく依存したため、当選したもののその影響力が非常に強いものになったうえ、エリティン自身の病状悪化がそれに輪をかけた。オルガルヒは、1995年に実施された株式担保型民営化により、多くの国有企業を手に入れ、巨大化していた。
こうしたなかで、1998年にはロシア国債はデフォルトに陥り、財政的破綻に至った。役人・軍人への給料支払いも遅延し、企業間取引にあってルーブルの使用が停止する事態がもたらされたのである (リクィディティ・トラップとまったく逆の現象である)。
エリティンは1999年12月31日、無名のプーチンを後継者に指名して大統領職を辞任した。
プーチンが大統領になって以降、ロシア経済は、原油価格の高騰化に支えられながら、経済は奇跡的な回復と成長をみせていくことになる。プーチン時代は2003年までは、かなり経済・政治的に改革が進行したが、それ以降は一変、国家による統制の強化、「オルガルヒ」の解体と官僚の支配力が露骨に進行することになる。リーマン・ショックはロシア経済をも襲うことになるが、そのなかで「プーチン・リスト」にみられるように、企業にたいする国家権力の影響は一層強大なものになっている。
このようにロシアの資本主義化は、その急速な市場経済化が、同時に少数の人間への富の不当な手段 (「市場経済化」の悪用) による集中化(オルガルヒの誕生)をもたらす一方で、多くの大衆を貧困のどん底に突き落とした。それでも2000年以降は高度家財成長により、豊かなミドル・クラスを誕生させることができたのであるが、他方、富は、今度はオルガルヒから官僚へと(国家の権威を利用した)不当な手段によりシフトしている。
B. 中国の歩んだ道
中国は毛沢東による「大躍進」が掛け声とは裏腹に、悲惨な経済状況を引き起こした。技術的裏づけのない鉄の生産に多数の労働力が動員され、農業生産はおろそかになり、大凶作とあいまって何千万もの餓死者を生み出すに至った。
その後、1965-1977年のあいだ、いわゆる「文化大革命」という名の反文化大革命、知識という知識が否定され(知識人や学生の下放)、文化という文化が否定される時代が中国を覆った。これは毛沢東による権力奪回の運動という側面をもっていた。長い文化大革命はやがて推進者のあいだでの内部対立を引き起こすようになり、経済は手に負えないほどひどい状況に陥っていた。こうした状況に人々は自然発生的に抵抗を始め、ついには四人組の処刑により終焉した。
そこから始まったのが、鄧小平を指導者に仰ぐ1978年からの「改革開放」路線である。この路線は、現在に至る中国経済の驚異的な経済発展につながるものである。これは事実上、中国経済の資本主義化である(中国では、これを「社会主義市場経済」と呼んでいる)。
資本主義化への中国のとった方針は漸進的改革路線であり、ロシアとは対照的である。
あれだけの激しい政治権力闘争を繰り広げた国でありながら、中国には一貫して中国共産党しか存在しない。劉少奇は修正主義者として最後は惨めな死を迎えたが、鄧小平は不死鳥のように蘇った。そして採用する政策はまるで性質を異にするにもかかわらず、共産党一党支配という政治体制は、依然として健在である。
中国経済が最初に発展を始めたのは、農村での民有地制度の導入による生産性の上昇とそれが生み出す消費需要の激増によるいわゆる郷鎮企業の成長である。それに、沿海部での特別区に外国企業を迎え入れる政策が続いたが、これを契機に沿岸部での経済の驚異的な成長が展開されたのである。
鄧小平のいう「先富論」に基づき、中国では市場経済化が急激な勢いで発展することになったが、これは民間企業によって推進されていった。「枛大放小」(小さい国有企業の民営化、大きい国有企業のみ政府が制御するという考え)がこの頃の指導原理であった。その結果、国有企業の占めるシェアは時を追うにつれて低下していったのである。
1992年の鄧小平の「南巡講話」も重要な意味をもつものであった。そして 1997年の第15回共産党大会では、国有企業を4分野に限定することが決定され、経済成長を民間企業に委ねる旨の方針が明確にされた。
その後、中央政府は内陸部の地方政府が積極的に外資の導入を行うことを許可し、そのことで内陸部の経済発展に火がつくことになった。
2002年にはWTO加盟が実現したが、そのために必要な条件である、外資の内国民待遇および関税の自由化を達成させていった。労働移動の自由化も大幅に認められるようになり、「社会主義公有制」はいまやほとんど形骸化するに至っている。
4-3. 米中の相違を質す
こうして、移行方式は異なるとはいえ、そして苦難の程度は著しく異なるとはいえ、ロシア、中国を始め、多くの国がこの数十年のあいだに、本質的に資本主義システムへの転換を図ってきた。その結果、世界を見渡すと、主要な地域は、ほとんどが資本主義システムを採用しており、ここに資本主義への収斂化現象をみることができる。
そこで改めて、次のような問いを出してみよう。「アメリカと中国を比べると、いずれもそれは資本主義体制であって、その相違は程度問題でしかないのではないだろうか」という問いである。
この問いにリーマン・ショックの前までであれば、まだ、本質的相違を強調する人の方が多かったことであろう。だが、リーマン・ショックの後、アメリカは巨額の公的資金を使ってメガバンクの救済を行い、巨額の財政支出を遂行することで、深刻化する不況の克服に努めてきた。その結果、GMやクライスラーといった自動車メーカーまでもが国有化されるという事態が生じてきている。
中国も巨額の公的資金を投入することで金融機関を救済したし、そして巨額の財政支出を行うことで不況の克服をはかった点では、アメリカと同じである(異なるのは、中国の場合、その効果は著しく、経済は民間企業の積極的な活動や大衆の積極的な消費活動を誘発することで、高度経済成長の軌道に戻ったという点である)。
政治システムにおいて中国は、あれほどのイデオロギー的変更を遂げてきたにもかかわらず、依然として共産党による一党支配が継続するという不可思議な政治状況が続いていることも確かである。だが、アメリカの政治システムにあっても大統領に圧倒的な権限が集中しているという事実は残る。人格、イデオロギー的相違があるため、ブッシュのような露骨な覇権国家の行動をオバマがとっているわけではないが、かといってアメリカが覇権国家の看板を下ろしているわけでもない。国内的に中国は自由の度合いはアメリカよりも少ないが、世界的にアメリカは「自由」の美名のもとに世界を監視している。
中国では官僚の汚職が著しく、貧富の格差もはなはだしい、そして社会保障制度が立ち遅れている、ということがよく指摘される。だが、官僚の汚職はアメリカでもはなはだしいものがみられ(とくにそれは政治家と金融家の政治的癒着というかたちに顕著である)、貧富の格差がとりわけネオ・リベラリズム思想の普及とともに著しくなっていったことも然りである。それに包括的な社会保障制度は、アメリカにはいまだ存在しておらず、その法制化がオバマ大統領の重要な喫緊の政治課題になっている。
このようにみていくと、アメリカと中国の資本主義の相違は見わけがたいものになっており、あるとしてもそれはもはや質的な差ではなく、程度の差である。それに今日の中国国民は小市民的である。優れた大学に入り、高度の専門知識を身につけ、高収入が望める職種につき、文化的・物質的に豊かな生活を送ることで頭の中は一杯であり、その点で欧米やわが国の市民と異なるところはない。
中国も巨額の公的資金を投入することで金融機関を救済したし、そして巨額の財政支出を行うことで不況の克服をはかった点では、アメリカと同じである(異なるのは、中国の場合、その効果は著しく、経済は民間企業の積極的な活動や大衆の積極的な消費活動を誘発することで、高度経済成長の軌道に戻ったという点である)。
政治システムにおいて中国は、あれほどのイデオロギー的変更を遂げてきたにもかかわらず、依然として共産党による一党支配が継続するという不可思議な政治状況が続いていることも確かである。だが、アメリカの政治システムにあっても大統領に圧倒的な権限が集中しているという事実は残る。人格、イデオロギー的相違があるため、ブッシュのような露骨な覇権国家の行動をオバマがとっているわけではないが、かといってアメリカが覇権国家の看板を下ろしているわけでもない。国内的に中国は自由の度合いはアメリカよりも少ないが、世界的にアメリカは「自由」の美名のもとに世界を監視している。
中国では官僚の汚職が著しく、貧富の格差もはなはだしい、そして社会保障制度が立ち遅れている、ということがよく指摘される。だが、官僚の汚職はアメリカでもはなはだしいものがみられ(とくにそれは政治家と金融家の政治的癒着というかたちに顕著である)、貧富の格差がとりわけネオ・リベラリズム思想の普及とともに著しくなっていったことも然りである。それに包括的な社会保障制度は、アメリカにはいまだ存在しておらず、その法制化がオバマ大統領の重要な喫緊の政治課題になっている。
このようにみていくと、アメリカと中国の資本主義の相違は見わけがたいものになっており、あるとしてもそれはもはや質的な差ではなく、程度の差である。それに今日の中国国民は小市民的である。優れた大学に入り、高度の専門知識を身につけ、高収入が望める職種につき、文化的・物質的に豊かな生活を送ることで頭の中は一杯であり、その点で欧米やわが国の市民と異なるところはない。
異なるところがあるとすれば、中国国民は高度経済成長のなかで顔を上に向けて歩いているのにたいし、日本国民はうまくいかない経済状況をまえに悲嘆にくれている点である(それはビジネス・リーダーの新年の挨拶にも明瞭だ)。だからといって中国国民は社会主義の勝利を誇っているわけではなく、彼らは「社会主義市場経済」という資本主義経済のもたらしたハイ・パフォーマンスに酔いしれているのである。
5. むすび
本稿では、資本主義とはどのようなシステムであるのかをめぐり、いくつかの視角から考察を加えてみた。
最初に、資本主義システムを次のように規定した。資本主義システムは「動態性」を根底的特質として有しており、それは「市場」、「資本」、「企業」のトロイカ体制で展開される。同時に、それは「市場」取引自体が貨幣を用いての取引であるとともに「金融資本の自己増殖的分化」活動として展開されるという意味での貨幣経済である。さらにそれは多くの「不確実性」に包摂されたシステムである。
以上の視点は、この30年間の世界経済の成長と破綻を知るうえで大変有益である。市場のグローバル的自由化(なかでも金融の自由化)が進行するなかで、そのもつ「動態性」が解放されることで、多くの国でそれまでにみられなかったような経済の成長がみられた。だが、それは金融の自己増殖的分化が実体経済を翻弄するまでに至り、ついにはメルト・ダウンを引き起こすことになった。そしてその後遺症はいまも癒えてはいない。米・EU・日本は経済の停滞から脱却方法をいまだ見つけることができずに現在に至っている。
続いて本稿では、資本主義システムがもっぱら合理的なものと考えられがちであるのにたいし、じつはこのシステムには「アバウトさ」(あいまいさ)がつきまとっていることを、市場価格、会計、それに債務契約の3つの領域で論じた。そして最後に、現代の資本主義システムを理解するうえできわめて重要な「資本主義への収斂」という現象を取り上げた。
1) 「会計」、「債務契約」については、Akerlof and Shiller [2009]に負っている。
2) 経済学で会計の問題が議論されることはほとんどないといってよい。
3) 近年の会計にあっては、「時価会計」という考えが重視されるようになっている。しかし、ここで「会計」として取り上げた問題は、これらの取り組みで解消される問題ではなく、「合理主義」を特性として掲げる資本主義システムにあって改善しようとしても改善することのできない類のアバウトさ(あいまいさ)である。
4) 「戦争はこりごりだ」という舌の根も乾かぬうちに、人は愛国心、信仰、何らかの使命感・正義感、憎しみから、すぐに戦争を始める。
5) 後年、シュライファーが多くの不正に関わっていたことが発覚し、全米を揺るがすことになった。
参考文献
Akerlof, G. and Shiller, R.J. [2009], Animal Spirits, Princeton University Press.
Hawtrey, R. [1944], Economic Destiny, Longmans, Green and Co.
平井俊顕[2000], 『ケインズ・シュムペーター・ハイエク』ミネルヴァ書房.
平井俊顕 [2009],「資本主義 (市場社会) はいずこへ」『現代思想』5月。
平井俊顕 [2009],「経済学はいずこへ」『現代思想』8月。
平井俊顕編 [2009],『資本主義論のケンブリッジ的展開』日本経済評論社。
平井俊顕 [2010], 「金融の自由化と不安定性」『統計』3月。
関志雄 [2007], 『中国を動かす経済学者たち』東洋経済新報社。
ポランニー, K.『経済の文明史』(玉野井芳郎・平野健一郎編訳) 、日本経済新聞社、1975年。
R.ライン・S.タルボット・渡邊幸治 [2006], 『プーチンのロシア』(長縄忠訳、日本経済新聞出版社、 2006年)。
Schumpeter, J. [1912],『経済発展の理論』(塩野谷祐一訳、岩波書店、1977年).
Schumpeter, J. [1943], Capitalism, Socialism and Democracy, George Allen & Unwin Ld.