2013年8月8日木曜日

どうなる私たちの資本主義




平井俊顕編著、上智大学出版、2011年、239ページ

どうなる私たちの資本主義
― 照射し、解剖し、分析する    
まえがき
第1章  資本主義を考える                 平井俊顕
第2章 マクロ経済学経済政策                 野口旭
第3章 中央銀行の役割とは何か                   田口博雄
第4章 プラグマティズムと経済政策                 竹田陽介
第5章 マーケットのデザイン                    青木研
第6章 資本概念の過多                  塩沢由典
第7章 公共哲学的観点からの資本主義再考              山脇直司
第8章 さまざまな資本主義                      山田鋭夫
あとがき

どうなる私たちの資本主義
― 照射し、解剖し、分析する
     
        序
2008年秋に発生したアメリカの金融システムのメルトダウン(瓦解) あらゆる国の経済を危機的な状況に追い込んだ。世界中で多数の金融機関製造業の倒産が相次ぎ膨大な数の失業日々発生するに至った。各国政府は金融システムを安定させるべく莫大な公的資を注入し続けるとともに、大不況から脱出すべく大胆な財政政策をとることに躍起となったのである。
あれからほぼ2年が経過しようとしている。この間、次の顕著な対照性が認められる。アメリカ、EU、日本といった先進国経済は、この危機的状況からの脱出に成功できずにおり、いわばトンネルの中、もしくは泥沼の中でもがいている状況にある。高い失業率を解消できる手段を喪失した状況におかれている。これにたいし、中国、インド、ブラジルなどの新興国経済は、メルトダウンの影響力は一時的であり、高い経済成長の波に乗っている。
アメリカやEUでは、公的資金の注入による金融機関の救済に始まり、超低金利の誘導金利政策、量的緩和、債券の購入など、あらゆる金融政策が用いられ、膨大な財政政策も採用されてきたにもかかわらず、高率の失業状態を解決することのできない現状が続いている。
ユーロ圏では、加えて独自の問題が発生してきている。ユーロ圏(もしくはEU内部)で、ユーロであるがゆえに生じていた危険性・脆弱性が、リーマン・ショックの衝撃波を受け、タイム・ラグを伴いつつ、2009年秋のギリシア財政危機として現出することになった。そして2010年の5月になると、問題はユーロ危機という深刻な事態へと展開するに至ったのである。
日本では、「失われた10年」は「失われた20年」の状況に陥っている。輸出の回復により持ち直していた経済は、リーマン・ショックにより、輸出の壊滅的打撃が引き金となり、従来から続く消費不振、そして投資不振のうえにのることで、再度、深刻な不況に落ち込んでいる。それに輪をかけるのが、金融当局と財政当局の無為無策の持続である。
昨年とは打って変わって、いまでは、財政赤字の累積にたいする懸念の声は世界的に強く、先進国経済は、財政出動はきわめて行いにくい政治的状況に陥っている。金融政策も効果がなく、財政赤字の赤字、国債残高の増大に恐れをなして財政政策はきわめて小規模なものにとどめられている。
これにたいし、中国、インド、ブラジルなどの新興国はメルト・ダウンの影響は一時的なものであり、その後、高度の経済成長を継続してきている。中国はメルトダウンの発生直後から、膨大な財政政策を発動させ、そしてそれは大きな経済浮揚効果を達成してきている。
周知のように現在、資本主義社会はさまざまな問題 ― 極端な資本の自由化、貧富の格差拡大、政府の大規模な介入、企業倫理のあり方など ― 抱えて苦しんでいるうした事態は時代の大きな転機を示唆している。過去30支配的であった社会哲学・経済学、経済政策論は通用しなくなり、世界はこの危機を乗り越えようとして、それに代わる新たな社会哲学・経済学・経済政策論を模索し、苦闘している。
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このような状況下にあって、私は、いったい資本主義社会とは何なのか、を幅広く追究し、意見交換ができるような場を設けることは、きわめて有意義であると考えるに至った。そこで、資本主義社会をさまざまな角度から研究してきた学者・政策経験者 ― 経済政策、レギュラシオン、進化経済学、倫理学、ゲーム論、社会哲学の専門家 ― それぞれ専門的見解に依拠しつつも)分かりやすく論じてもらい、もって一般読者にたいし資本主義社会をみる視座を提供したく、有力な専門家に依頼を出すことにした私大である。そのさい、次の基本的論点には、意を払ってもらいたいという希望を沿えることにした。
1.市場社会はどのように評価されるべきものか(肯定的になのか、批判的になのか、あるいはその中間なのか)、そしてそれはどのような理論・根拠によるのか。またそれをどのように改善していくべきなのか。
2.市場、企業、経済主体、政府等はどのように評価されるべきものか。
 ここで、「市場社会」という言葉を用いているが、これは「資本主義社会」という言葉と同一の内容を示すものである。通常、「市場経済」という言葉は「市場社会」よりもよく使われているが、私見によればこれは少し狭い概念である。「市場社会」の場合、「市場をキー装置として展開される社会」ということで、それは経済のみならず、社会・政治・文化をも包摂するものとして考えているからである。
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本書の概要を記しておくことにしよう(以下、執筆者による要旨をそのまま掲載している)。
第1章「資本主義を考える」(平井では、資本主義とはどのようなシステムであるのかをめぐり、いくつかの視角から考察を加えてみた。最初に、資本主義システムは「動態性」を根底的特質として有しており、それは「市場」、「資本」、「企業」のトロイカ体制で展開されるシステムとして規定した。続いて、資本主義システムがもっぱら合理的なものと考えられがちであるのにたいし、じつはこのシステムには「アバウトさ」が随伴していることを論じた。最後に、現代の資本主義システムを理解するうえできわめて重要な「金融のグローバリゼーション」、および「資本主義への収斂」現象を取り上げた。
第2章「マクロ経済学と経済政策」(野口)では、日本銀行をはじめとした中央銀行の課題について改めて考察する。世界経済危機の中で、マクロ経済政策の担うべき役割に改めて注目が集まっている。本章は、戦後におけるこれまでのマクロ経済政策の思潮の変化が、マクロ経済学の展開とどのように関連するのかを考える。より具体的には、ケインズ経済学の黄金時代からマネタリズムによるケインジアン批判による「反革命」、合理的期待革命と古典派マクロ経済学の形成および浸透、ニューケインジアンによるケインズ経済学の「再興」といった、戦後のマクロ経済学の展開と、その間の現実のマクロ経済政策との関連を考察する。
第3章「中央銀行の役割とは何か」で取り上げる論点は、次のとおりである。
 リーマンショックが「百年に一度」の衝撃であったかはともかく、主要国経済にとって変動相場制移行後経験した、最も大きなショックの一つであったことは確かであり、そうした事態に直面して、日本銀行を含めた主要国の中央銀行は、標準的なマクロ経済学の教科書で説明されている金融政策の枠組みを超えた対応を余儀なくされた。その「標準的」ではない金融政策の意味を考えてみたい。具体的には、第一は「標準的な金融政策」と信用秩序維持政策との連携をどう考えるかであり、第二は、金融政策が実質的に財政政策の分野に踏み込むことになる点をどう考えるかであり、第三は、金融政策運営において、一般物価動向に加えて資産価格をどう位置付けるべきかである。
第4章「プラグマティズムと経済政策」(竹田)では、いまこそ、福澤諭吉の「実学」にみられるプラグマティズムに基づく経済政策が評価されるときであることが主張される。バブル崩壊、不良債権、デフレ、ゼロ金利・量的緩和政策、財政赤字を経験した日本経済は、サブプライム・ローン危機によりデフレ、ゼロ金利を再来させるに至った. バブル期の日銀総裁に見られる「固い心の人」ではなく、ルービンやグリーンスパンに代表される「柔らかい心の人」によるプラグマティックな政策立案こそ必要である.
第5章「マーケットのデザイン」(青木)では、近年注目され実社会へも応用されている、市場の仕組みをデザインしようという取り組みについて論じる。市場はどこにでも、そしていつの時代にも存在し利用されてきた普遍的な制度である。しかしその一方で、市場が、常に期待されるような望ましい成果をもたらしてきたわけではない。市場が円滑に機能するには、その仕組みがうまく構築されていなければならない。
第6章 資本概念の過多」(塩沢)では、「資本概念」から資本主義の再捕捉が試みられる。資本主義の初期において、「資本」は、先払い賃金であり、その内実は、労働者の生存を可能にする資源であった。産業革命により、機械・設備の重要性が増し、また機械・設備装備のための資本蓄積が鍵となると、資本は、機械・設備に体化された資金ということになった。一方、20世紀半ばから「人間資本」(あるいは「人的資本」)の概念が現われ、労働者の熟練や能力形成までが資本投資と考えられるようになり、さらに社会資本、創造資本などいう概念まで現れてきた。本章では、市場経済のすべてを覆うに至った「資本」概念について検討を加え、本来社会的に形成される知識や技能・熟練、社会技術を一律に「資本」概念で捉えようとする傾向に異議を申し立てる。
第7章「公共哲学的観点からの資本主義再考」(山脇)では、公共哲学を機軸に資本主義が検討される。近年、各大学で授業が開設されるようになった公共哲学は、「政治、経済、その他の社会現象を公共性(公開性、公正性、公益性)という観点から統合的に論考する学問」と言える。したがって、資本主義社会を論じる視点も、経済学とは異なったものとならざるを得ない。本章では、アダム・スミス、ミル、ケインズ、ポランニー、センなどの経済社会論を踏まえつつ、現代における私企業、政府、NPOなどの役割を考察し、経世済民の学の復権を探ってみたい。
 第8章「さまざまな資本主義」(山田)では、資本主義諸国をいくつかに類型化し比較することを通して、世界の多様性と各国の独自性を検出する。アメリカ型の金融資本主義が崩壊したと言われているが、では他の諸国はどんな資本主義なのか。経済社会の「レギュラシオン」(調整)という観点から先進諸国を分析してみると、市場的調整が支配的な国もあれば、非市場的な社会的制度によって調整されている国もあり、さらにその「社会」なるものの中身も多彩である。
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以上に紹介したところからも明らかなように、本書には資本主義システムが、さまざまな角度、関心から論じられている。このシステムをめぐり、大きく捕捉する試み(平井論文、山田論文)、ある学問的視点から捕捉する試み(山脇論文)、ある概念の検討を通じる捕捉の試み(塩沢論文)、経済学と経済政策の観点から捕捉する試み(野口論文)、日銀の役割に焦点を合わせたもの(田口論文)、マーケット・デザイン・セオリーの視点からの「市場」分析を行ったもの(青木論文)、プラグマティズムに基づく経済政策論を福沢諭吉との関連で論じたもの(竹田論文。同論文は筆者が行った会話調の雰囲気を残したいとの申し入れがあり、それを承諾したため、会話調が保たれている)から構成されている。
 本書についてであるが、編集にかかわる責はもっぱら編者に、個々の内容については各執筆者にあることは、論をまたない。 
編者はこの企画に参加いただいた執筆者の皆さんに感謝すると同時に、本書が読者諸賢にとり、いささかなりとも資本主義社会(市場社会)を理解するうえで有益であることを祈念してやまない。
(なお、本書の成り立ちについては、「あとがき」をご覧いただければ幸いである。)
平井俊顕(2010年盛夏)